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仕立て屋のサーカス
自由ってなんだろう。
ほぼたいていの人は自分がどこか不自由だと思って生きていると思う。時間、仕事、場所、経済、人間関係。自由を阻害する要因ってたくさんある。そういういろんな「うすのろ」なものに支配されているとうっすらみんな思っている。何かに支配されている時、そこに自由はない。
ただ、それがわかってさえいたら自由に近づける可能性がある。敵が見えているし単にそれを乗り越えるための課題を解決すればいいだけだから。
実は一番危ないのはいろんなものの支配に気づかずにいる時だ。支配される側が支配されていると気づいている時はそれは完全な支配じゃない。完璧な支配っていうのは、自分がよもや支配されているとも思っていない時だ。
たとえば僕らは言葉の限界に支配されている。なんでも言葉で伝えられると思っているけど、言葉を操って細かな心の機微を伝えるのは容易じゃない。それでも僕らは充分にコミュニケーション出来てると思い込んでいる。
生活の中で誰しも言葉の限界に思わず知らずぶつかってあちこちで誤解を生み、言葉の限界に支配されているにも関わらず、そんなこといちいち考えていたら生活に支障があると思ってスルーしている。実生活では言葉の限界に支配されてみんな結構たいへんな思いをしていると思うのだけど。
言葉の支配を越えるためには、身振りや手振りだけでなく言語以上のことをしなければならない。言葉だけを使ってその支配を越えるのが詩人というアーティストなのだけど、そんなことは普段の生活では意識にも上らない。
合理的無知(思考停止)とはコスパとタイパ(どっちも嫌いな言葉)の高い在り方だ。それを知らずしらず選択して自分が支配されているということを意識から排除した時、もはや敵は無色透明になり支配なんてどこにも存在しないという支配が完成する。
アメリカに支配されっぱなしの日本の政治がまさにそれだ。ほとんどの人は僕らはアメリカに支配されているなんて思ってない。だから完璧なんだ。
そんな時出番が来るのがアートの存在だと思う。アートはそんな思考停止の寝ぼけた感覚をゆさぶって問い直し、どこに支配が存在するかその輪郭を明らかにするからだ。
仕立て屋のサーカスは曽我大穂が演出するプロジェクトだ。もう10年以上やっていると思う。彼とは古い友人であるけれどいままで体験したことはなかった。かつてダブルフェイマスのマネージメントしてくれていた友人がシネマ・ダブ・モンクスにも関わっていたし、ジャンボリーの実行委員が仕立て屋のサーカスにも関わっていたりする。今まで何度も見る機会はあったのに今日が初見だというのは自分でも意外なくらいだ。
僕は僕でグッドネイバーズ・ジャンボリーというある種のサーカスを主催していて、自分がやっている時は影響されるのを無意識に避けていたのかもしれない。
でも自分のサーカスが終わってフラットな眼で見てみて、この作品の力強さをようやくダイレクトに感じる事ができた気がする。
大勢の観客の真ん中で思うように演奏したり語りかけたり、観客に積み木をさせてみたりしてる大穂の姿を見てみんなすごい自由な人の姿を目撃したと思う。
あの人自由でいいねえ、なんて呑気なことじゃない。そこで目撃するのは大量のモノや時間や場所の制約にがんじがらめになった中で身悶えしながら自由を勝ち取ろうとする等身大の隣人の姿。言葉を超えてそれが意識される。その気づきがあるから感情が動く。
なにものかの支配から自由になるためには、支配している何ものかにまず気づかなければならない。仕立て屋のサーカスはそれに気づくきっかけを提供する素晴らしいアート作品だと思う。