咲子と咲男が私をつくる〜 橘 咲子さん 〜
私が感じたあなたを切り取り綴るshutter
ご依頼者様と対談して感じたことをそのままに、その魅力や個性、素敵なところ、お仕事にかける想い・・・あなたが私に言葉にして欲しいと思ったことを綴る企画です。
女性性、男性性と言う言葉を聞いたことがある人はほとんどだと思うし、私たちは子どもの頃から「女らしさ」「男らしさ」と言うものを見聞きし、意識し、そして時に、囚われ、縛られながら生きています。
自分に女らしさを求め、男っぽい自分は女らしくないと責め、好きな人に男らしさを求め、女々しいところなんて見たくないと愛想を尽かす。
男、女。
一体この性別というものは何なのでしょうか。
もし、この男女という性別の括りから私たちが自由になることができたなら。あなたはどんな姿でこの世界を生きるのでしょうか?
女のあなたの中にいる男のあなたも
男のあなたの中にいる女のあなたも
もしかしたら、表現されることを、待っているのかもしれません。
性別という括りから自由になって生きることが見せてくれる世界は
思いがけず広く深く大きく、ユーモアと楽しみに溢れているのかもしれない
そんなことを感じさせてくれたのが、今回ご紹介する橘咲子さんです。
まず初めに。咲子さん、私は咲子さんに会えて本当によかったなぁと、今回このshutterを通していろんなお話をお聞かせいただいたことが、私の未来を選択する大きなヒントにもきっかけにも、後押しにもなりました。
私の知らない世界を生きている話を聞かせてくれること、私が生きたいと思っていた世界を選んでも大丈夫だと聞かせてくれたことに、まず初めに心より感謝申し上げます。
夏の日の品川駅で初めましての待ち合わせをした咲子さん。
誰一人として同じ人はなくて、みんながそれぞれにユニークだけど、咲子さんの選んだ道もとっても、ユニークでした。
現在は進学塾の事務としてお勤めの咲子さん。橘咲子という人を他人目線で見てみたい、その言葉を読んでみたい、そんな理由でお申し込みくださったshutter。
だからこれは、私からみた咲子さんの、お話。
お会いした時からするするとお話が始まって、とっても意気投合したのは、人との関わり方やパートナーシップのこと。
この社会はどうにも、あるべき形に囚われすぎているけれど、本来は私たちは自由で、型にとらわれず、友達とか、夫婦とか、そういったカテゴリに縛られることなく、自分にとって幸せな関係性を選べばいいだけなんだよね、そんなことから深いお話が始まった、あの日。
実は私も、家族として仲は良いし、この家族というチームは大好き、とは言え、いつもずっと一緒に同居をしていることだけがベストな関係だとは思っておらず、もっと自由な家族の形を選んでもいいんじゃないか、そんなことを、チラホラと考え始めた時。だから、咲子さんから聞いたパートナーシップの話は、私の心と思考に大きな風穴を作り、とても爽快な風を吹かせてくれました。
現在は、旦那様と別居しているという咲子さん。
もともと、とても男性的な部分に惹かれた旦那様。いざ結婚をしてみると・・・その生活はどうしても心苦しかった。
恋人としてはとても満ち足りた関係の二人だったのに、結婚して、子どもが生まれ、父親と母親という役割で、同じ屋根の下で共同生活をしながら子育てや家事をしながらともに生きる時間が増えた二人は合わなくて、咲子さんはどんどん苦しくなってしまったそう。一緒にいることが苦痛でストレス。とうとうある日、耐えきれなくなって家出。ご実家に戻られたそうです。以来ずっと別居生活。
価値観の違いは大きいし、そこが合わなければ男と女は一緒に生きていくのは不可能なのか。
あなたは今咲子さんの別居生活を、その関係性を、どんな風に思い描いたのだろう。
今の咲子さんと旦那様は、この距離感だからこそ、別居しているからこそ!とっても!うまくいっているそうなのです。
家出同然に飛び出して、実家に行った後、咲子さんはご実家でご両親とお子さんとの生活をスタート。
旦那様は一人暮らし。
もちろん最初は色々あったそうですが、結果的に・・・その距離感がお二人にとっては、「お互いを魅力的に感じられるベストな距離感」だったそう。
今では旦那様が咲子さんのご実家に行くこともあるし、何かあればすぐ駆け付けてくれる、とっても頼りになる人。お子さんの進路のことでも、学校の面談にも顔を出してくれたり、一緒に考えてくれる。誰よりも咲子さんとお子さんのことを考えてくれる、頼り甲斐のある人。「だから私は彼をすごく信頼している。」とおっしゃる。
でも、咲子さんとお子さんが旦那様のおうちに行くことはないそうです。その理由は、なんともさっぱり。
「だって、ものすごい散らかってるのが想像つくから。片付けしないんですよ、あのひと。まぁ、、、あともう少ししたら、、、ちょっと行くくらいはできるようになるかもしれないけれど。」
そう、話す咲子さんは、決して旦那様が嫌いな口調ではなくて、
「好きな人のちょっとダメなところ」を愛しそうに話す口調そのもの。
結婚する前に付き合っていた時、本当に魅力的に見えていた旦那様。それは、咲子さんにとっての旦那様が「異性として、男として、「彼」という立ち位置だからこそ感じていた、野生的な男らしさでもあり、かっこよさ」でもあった。
私は彼のそこに惹かれて好きになったし、そんな彼が頼もしかったのに、結婚して一緒に住んでしまったら、その頼もしさは、結婚生活という枠の中では消え失せてしまうものだった。
夫婦だから、一緒に住んでしまうから、
見えること、見えてしまうこと、
得られるもの、失ってしまうもの。
夫婦とはちょっと違う、距離を置いている二人だからこそ、
見えること、感じられる魅力。
この距離感だからこそ、得られるもの、失うもの。
それを考えた時に、咲子さんと旦那様の関係は別居するということで最もお互いを魅力的に感じ、頼りがいのある存在として、信頼しあえるものだった。
そう、きっと、別居することで得ることの方が、大きかったし、二人にはそれこそが、必要だった。
だから、その距離感を、関係を選んだ。
二人ともそれに納得している。そしてその関係を続けていることが、心地いい。
そして、私にそのことを話してくれる咲子さんからは、旦那様を信頼していること、魅力を感じてとても好きでいることが、ありありと伝わってくるし
咲子さんが話してくれる旦那様像からも、とても頼りになって逞しい、咲子さんとお子さんを守ると決めた素敵な姿は、想像にたやすい。
夫婦、というより、パートナー、そのものだなぁ
私は、そんなことを思ってしまった。
どんな形であるかよりも、夫婦の籍が入ってるかどうかよりも、大切なこと。
互いを信頼し合い、頼り、頼られ、そして、互い、「素敵な人」と思えること。求めていて、求められて、そうして、好きが通じ合う。
その関係は、きっと誰もが望んでいるもの。
結婚して、籍を入れたら夫婦で、夫婦なんだから一緒に住みましょう。
それが、ごく当たり前の、「幸せな家族の形」として与えられてきた社会の中で育ってきたけれど。実際には離婚は年々増えているし、私の両親も離婚している。
一緒に住むという形では幸せを得られなかった人たち。
でもそんな私の両親も、離婚して一人の人と人としての付き合いは続いており、娘から見る彼彼女は、一緒に住んで、ともに時間を体験を重ねることが良しという前提を持ったからこそ、うまくいかなかった時より、よっぽど、二人としてその関係は成り立っている。
例えそこに、憧れときめくような「恋物語」がなかったとしても。そこに何かしらの「愛と呼ぶに相応しいもの」があることを、私は知っている。
目の前にはまさにご自身でそれを体現し、体感している、咲子さんが・・・
距離があるからこそ愛せることもあることを、証明している咲子さんが、いる。
そして彼女は、そんなご自身のことを、臆することなく、「これが私が選んだ幸せの形なのだ」と、堂々としてらっしゃる。
何とも、かっこいい。
そう、私から見る彼女は、とてもかっこいいのです。
自分が思うものを選べばいいじゃないか、他人がとやかくいうことじゃない、とばかりに、ご自身の中にズドンと一本太い芯を持っている。
ジメジメしたことが嫌いで、やるならやる、行くと決めたら行くだけ、自分の決めたことなんだから、失敗なんか、恐れんな、ぐずぐずすんなよ、行って来い! お前のやりたいことはお前しかできないんだよ。
そんな言葉がポンとたくましく飛び出すような、男らしさの一面を持っていて。なよっとしたくなる女性の背中をばしーんと、でも、「いつでも受け止めるから帰ってこいよ、だから行ってこい」と言わんばかりの逞しさ。
そう、その姿はまるで、咲子というより「咲男(さきお)」
(もっと正直にいうと、咲男君からはなぜか私は西岡徳馬を想像してしまう。)
私は咲子さんと話しているのに、目の前にはとっても頼りになる、西岡徳馬・・・じゃなかった、思わず懐に飛び込みたくなるような「咲男」君がいる。あれ?一体誰と話してるんだろう??そんな気持ちにさえなる。
でも、咲子さんはそれだけじゃない。男らしい「咲男くん」かと思えば、次の瞬間には咲子がいる。
さっきの頼りになるたくましい口調の咲男はどこへやら、ご自身のこれからのことでちょっと悩み考えていることになると、あらあら
そこには、とっても柔らかくって、まるんとした、咲子ちゃんがいる。
可愛らしくって、キュンとする。今度はまるでとっても仲の良い女友達と恋バナでもしているよう。彼女のそんな柔らかさに、私の方もゆるんとするし、ついつい抱擁したくなる。
私からみたそんな
咲子と咲男が行き来する、橘咲子という人は、なんとも魅力的で、惹きつけられてしまう。
決断力と判断力に尻込みしない、突き進み貫く男らしさと
包み込んでは柔らかくあたためたくなるような、女のまるみ。
彼女を見ていて、私は思う。本当は私たちは、自分の内側に、そのどっちもを持っているはず。
女だから女の要素だけ
男だから男の要素だけ
そんなことはきっとないし
そもそも「女らしさ」も「男らしさ」も社会や何かが定義したものに過ぎなくて
私たちにはもっとたくさんのあらゆる側面があるのに
「私は女だから」と閉じ込めている猛々しい本気の強さがないだろうか?
「女なんて」と邪険にしている可愛げや素直さがあるんじゃないか?
「男だから」と傷つきやすいその柔らかな心をひた隠しにしてないだろうか?
「男なんて」と本当は誰かを強く引き寄せたいその手を引っ込めてはいないだろうか?
その全てが、本当は誰の中にもあるのに
男、女というそのカテゴリに縛られて、私たちはいろんな自分から目を背けてしまってはいないだろうか
咲子と咲男をくるくると使いこなし、一人の人として、なんとも生き生き強くもか弱くも見える咲子さんの、さまざまに揺らぐ定まりようのない、だからこそ追ってしまうその魅力の前に、私はそんなことを、思ってしまう。
どっちも、いていい。
ううん、どっちもいるもの。もうあるもの。
だからそのあなたで、全部を出して、あなたになればいい
咲子さんと話していると、そんな気持ちになる。
私の中の、男と女。
私の中の、あらゆる私。その私と、生きていく。
私のすべてを、味方につけて、生きていく。
男か女かなんて、きっと実はどうでもいいのかもしれない。
だってそのすべてが、私であり、あなたなのだから。
だから、きっと、咲子さんの中にいるであろう、咲子も咲男もきっと喜んでいるはず。
私の中の私を、出してくれて、表現してくれて、ありがとうと。
何が男らしさで何が女らしさなのか。
男性性と女性性。その定義はどこまでがまことなのか、もはや私はわからない。
でも、
関係性の枠を超えて、「私にとってのベストなパートナーシップの形」を選び、「愛し愛されること」そうして得られる喜びの日々を手にしている咲子さんを見て思う。
それはきっと
彼女が彼女の中の
男性性と女性性を・・・
いろんな、あらゆる側面を、
存分に受け入れ生かし合っているからではないか
そんなことを、思わずには、いられない。
思いが、意識がこの世界をつくるという。
だとしたら。
私が私の中の
男性と女性、陰と陽、表と裏、強さと弱さ、一貫性と揺らぎ
さまざまな二面性二局性を、受け入れ愛し生かし合った時に
ベストパートナーシップが生まれるんじゃないかな、なんてね。
女らしく、男らしく・・・・
そんな枠にはまって抜け出せない人は、一度咲子さんと話してみると、良いかも。
きっと何かが、がしゃんと音を立てて崩れ、新しい世界を、教えてくれる気がします。
咲子の中の、咲子と咲男。
二人の相思相愛、時には言い合い騙し合い励まし合いをこれからも見てゆきたい。心底そう思います。またぜひ、ともに話す日を。
咲子さん、この度はありがとうございました!