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寂聴 九十七歳の遺言【第1章】

〜寂聴 九十七歳の遺言〜

久しぶりにビビッときた本だったのでこちらで紹介、感想を書かせていただきます。

久しぶりの更新なので、文章や言葉が拙いですが、お時間許す限り読んでってもらえたらと思います!

【瀬戸内寂聴】
本名:
三谷晴美
1922-2021(99歳没)
日本の小説家、天台宗の尼僧

この本は瀬戸内寂聴さん(以下、寂聴さん)が生前自分の遺書のひとつとして執筆された本になっています。

目次
第1章:生きることは愛すること 
    愛することは許すこと 
第2章:「ひとり」は淋しいか 
第3章:「変わる」から生きられる 
第4章:今この時を切に生きる 
第5章:死ぬ喜び 

各章の中でも小題がいくつかありますが、その中でも特に私が印象に残った所だけをピックアップして紹介、感想をあげていきたいと思います。

第1章:生きることは愛すること 
    愛することは許すこと 

※第1章は恋愛、愛情についての内容となっています

・愛することは許すこと

みなさんは誰かを愛したことがありますか?
それは、家族だったり、友人、恋人だったりと様々だと思います。
私は自信を持って人を愛した事があると言えます。

しかし、そんな愛する相手が居たとしても、喧嘩や意見のすれ違いは人間同士である限り必ず生じてきます。その中で、どれだけ相手を”許せる”か、、、

本書の中では、極端ではありますが、
人を愛すると言うことは、愛した相手が罪を犯して牢屋に入ったとして、周りにどんなに誹謗中傷されようが、牢屋まで面会に行くし、最期までその人の幸せを願うこと。
他者にどれだけ言われても、その人の幸せを1番に思える気持ちを持てる事こそ本当の愛なのではないでしょうか。と言ったことが書かれていました。

他、例えば自分の子どもに対して親は無償の愛を注いでくれますよね。どんなに喧嘩して、言い合いしても決して見捨てることは無いし、きっと私の親も私が悪いことをしたとして、もちろん叱りはしますが最後はやっぱり自分の味方をしてくれるんだろうなって思いますし、それが本当の愛なんだろうなあと感じます。
(勝手に味方してくれると思ってます笑)

愛する。
って言葉ひとつとっても深いなあと思いました。

・九十歳を超えても
・この世で出逢えたことの有り難さ
・いくつになっても恋の雷が落ちる

「人間は愛することを死ぬまでやめられない。それは肉体の衰えとは全く関係なくて、むしろ年齢を重ねるほど強く恋慕(れんぼ)することもあると、心得ておきましょう」

「人間は誰かを愛するために生まれてきたのです。誰も愛さないで死んでいくことは、せっかく生きてきたのに惜しいことだと思います」

「百冊の本を読むよりも一度の真剣な恋愛の方が、はるかに人間の心を、人生を豊かにします」

人を好きになれる事は素敵だし、一緒に時間を重ねたい、共有したいと思える相手と過ごせる幸せはこの上無いと思っています。

ただ人間、傷つきたくないから恋愛する事自体を遠ざけてしまうこともありますよね。本当にこの人を信じてもいいのかな。裏切られないかな。って思ってなかなか前に進めなかったり。ただ、それは真剣に考えてるからこそそういうことを思ったり不安になったりするんだと思うし、私含めてそういう考えを持っています。

また、誰かとお付き合いをするとなると大きな決断となりますよね。片思いは1人だけで出来たけど、付き合うとなれば自分1人だけじゃなくて相手が居るわけで。
そうなったとき、やはり人間(特に日本人)は良いことだけじゃなくて悪い事に目がいきがちです。

でもそれはそれだけ相手や自分のことを考えている証拠で恋愛を軽く捉えず真剣に向き合ってるからだと私は思います。

寂聴さんは人を好きになったり、愛すると言う事は生きていく中でとても大切なことであると言われていました。
恋愛をせずに死んでいくのは本当にもったいない。
傷つくのが怖いからって若いうちに恋愛を経験しないのはもったいないと。
約1世紀も生きている人が言うんですから間違いないなあ。と心に刺さりました。

大人になると出会いが少なくなりました。
恋することも減りました。
傷つくのが嫌で面倒で避けてきました。
今も傷つきたくないのが本音です。
ただ、それだけで逃げるのって本当にもったいないんだな。と、この書を読んで気付かされます。

ただ恋愛に焦りは禁物だなと私は思いました。
(自分の経験含めて笑)
長く一緒にいたい人とは時間をかけて距離を縮めていきたいし、結婚なんて二の次三の次くらいで良いんじゃないでしょうか。だって結婚を前提にお付き合いを、、、なんて言葉、正直性格や価値観が合うか合わんかなんて付き合ってみて長く居ないと分かんなくないですか?笑

とはいえこれは、あくまでもこれは私の持論でしかありません。これを今読んでる方と、もしかしたら考え方が異なる可能性があります。
それはそれで良いと思います。自分の思いのままに人を好きになれればいいなぁと。

…何歳になっても恋の雷は落ちるでしょう。
焦らず心穏やかに時を待ちたいですね。

・「1人」を愛するのが1番幸せ

寂聴さんは、結婚して子供を授かった後、夫の教え子の文学青年男性と不倫関係になり、その子供を置いて家を出て行っています(笑)

こんな経歴はありますが、寂聴さんは1人のを愛する事が1番幸せであると口にされています。
(あまり説得性無いような、、、とも思いましたがそれは心に留めておきましょう)

ただ、私もこの考えに対しては、読みながら大きく頷いていました。例えばこの場合であれば恋人についてですね。今私には恋人は居ませんが、過去を振り返ると様々な事を考えさせられる事がありました。

実は、恥ずかしい話ではありますが、学生時代、長くお付き合いしていた方に何度も浮気をされた事があります。もちろん私に至らない点があったために相手が浮気に走ってしまったのだろうと言われるのは重々承知です。サレる側にも原因があったのかもしれません。

ただ持論を1つ挙げさせてもらうと、どんな相手であろうと、浮気するくらいならその関係を断ち切って他の人へ移ってください!って私は思います。笑

やはり浮気された時の心の喪失感や絶望感はもう2度と味わいたく無いですし、そこから恋愛に対して億劫となったのも本音ですし、数年恋愛をしなかった?出来なかった?ので。笑
(浮気とかそういうことに対してのトラウマは現在もありますが、今は過去の事を笑い話にできるようになりました!後章で話がありますが人間って忘れていく生き物なんですよ笑)

そんな事があっても、その時は相手を何度も許していましたね笑

まあ、私の過去の話は置いといて、、、

この世の中不倫や、男女(今の時代男女に囚われず同性同士もあります)トラブルなど多く聞きますがやはり浮気や不倫って良く無いですよね。何より大切に思ってくれてる相手を傷つけます。

また、寂聴さんはこのような事を言っていました。

男は代えれば代えるほど悪くなる。これも経験者は語る。だからよく覚えておいてください。どんなに変えてもせいぜい似たような相手ばかり。好みは変わりませんからね。愛する人が1人で終わったら、それが1番幸せなのは言うまでもないでしょう。

もちろん人間の気持ちは1日、1分1秒変わっていくもので絶対なんて言葉はどこにも無いと思います。ただ私の今の考えを述べるのであれば、せっかく好きになった相手、付き合えたり結婚できたのならばその相手を幸せにしたい、大切にしたいと思うし手放したく無いなと思いますね。
また、片思いでもそれは同じではないかなと思います。私は一生叶わぬ相手の恋だろうと、好きならば好きじゃなくなるまで好きで居ても良いと思いますし、なんなら自分自身はそうし続けます。それだけ1人の相手を想えることってすごく幸せなことだとだと私は思います。

・見返りを欲しがる「渇愛」
・「慈悲」はあげっぱなしの愛
自分を愛してもらいたいから、相手を愛する、それが【渇愛】です。
自分を忘れて他人に尽くす仏さまの【慈悲】とは正反対ということです。【慈悲】は一切のお返しを求めません。

例えば分かりやすく言うと、僕は彼女に「好きだよ」と言葉にして伝えるのに、彼女は僕に全く「好き」って言ってくれないんだ!と言った事ですね、、、

みなさんはこんな経験ありませんか?

これって正に相手に好きと言って欲しい、自分が安心したいがために僕が彼女に好きと言って、彼女から好きと言う返事が返ってこなかったからわーわー言ってるだけだなって思っちゃいます。
(まあ自分は想いを口にしたいし、口にして欲しい人間なので自分も言ってしまう人間です。笑)
正に渇愛の悪い手本です笑

また、生きている限り、友達、家族、好きな人や恋人、に対して何かをしてあげたり、プレゼントを贈る事、って必ずありますよね?物をあげるだけではなく言葉を投げかける事もそうです。その時にあなたは何を思ってますか?


私の場合は、

何かプレゼントをあげる時だったら
・これをしたら、相手の喜ぶ顔が見れるかな
(・言われるために渡してる訳じゃないけど、ありがとうと言われなかったら悲しい)
・迷惑じゃ無いかな、これ嫌いじゃないかな
・センス悪くないかな

言葉やLINEとかであれば
・こんな返事や反応があったらいいな
・この前はこうだったから今日もそうかな
・早く連絡が返ってこないかな

ざっと挙げただけでこれほど出てきます。人間って欲深いもので自然と”渇愛”が湧き出てしまってるんですよね。

まず1番最初の
相手の喜ぶ顔がみれるかな。
(ありがとうと言われなかったら悲しい)
まさにこれこそが”渇愛”だなと思います。

相手の反応なんて相手次第。感謝の言葉が返ってこなかった場合、もしかしたら相手にとっては要らないものだったかもしれません。
それに、何を当たり前のように喜んでもらえる物だと思ってるんでしょうか。勝手に期待して自分の思っている反応と違ったら落ち込んで、、、
結局見返りを求めることも渇愛です。

しかし、この点は慈悲の心持ってるなと思う所もありました。別に相手にプレゼントをあげたからといって自分はプレゼントやお返しが欲しいなんて思いません。(もちろん貰ったら嬉しいですよ!)自分があげたいと思ってるから贈りたいですし。完全に自己満足で行動してる所があります。

こうやって自己分析も含めて客観的に見てみると、私は物や形の見返りは求めてないにしても、心の見返りを求めてるところがあったなと猛省しました。

相手からなんの反応がなくても、それでもあなたのため、誰かのために何かしてあげたい。
それが慈悲の心です。そんな慈悲の心を持って生きていけたら余裕を持った生き方が出来るんだろうなあ。と、考えさせられました。

もちろん180度急に考え方を変えるなんて無理だと思います。だから、少しずつ慈悲の心を持って生きていけれるように日々の積み重ねを大切にしていけたらと思います。

以上
第1章:生きることは愛すること    
愛することは許すこと 

についてでした。

持論も含めながら書いていったのでとても長くなりました。以降第2章は次の記事にまとめさせて頂きます。

今後、ゆっくりとしたペースで投稿していこうと思っています。
最後まで閲覧ありがとうございました。
では、また。





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