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yuyashiokawa
わかったふりして教えてる「普通」
僕は、病休になるまでの3ヶ月間、小学校の教師として、色々な子どもたちと関わっていた。
その時、思っていたのは、全然まだまだ足りない部分だったり、不器用な部分ばっかりだったのに、常識側として、不完全なまま、人に何か教えているんだなという感情だった。
箸も上手く持てないし、片付けも得意じゃないのに、一般生活の常識を教えなきゃだし。高校の頃の数学は赤点ばっかりだったのに、平然とした顔で算数を教えてるし。子供たちより、字が汚いし、書き順もめちゃくちゃなのに、漢字教えてるし。
自分が子供の頃、描いていた学校の先生って、もっと完璧で大人だったはずなのに...(いや、意外とあの頃の先生たちも、同じような悩みを抱えていたのかも...)
子どもたちにも、おっちょこちょいや不器用なところが自然とバレていって、片付けや丸つけを手伝ってもらったり、不器用なところをフォローしてもらったり、本当に助けになってもらった。
でも、そんな不甲斐ない自分だから、他の教師が気づけないような痛みや傷がわかったり、伝えることができたりするのであって、だからこそ、神様からのギブアンドテイクだと思っている。
(でも、箸は上手く持てた方がいいし、片付けはできた方がいいし、数学はやっぱりできた方が良い。)
今年の春からは、特別支援学校の先生になるつもりだ。多分、また分かったふりして教える普通もあると思うが、色々な特性や発達段階を持つ子どもたちと共に、「分からない部分」を分かち合いながら、一緒に成長できるような教師でありたい。