短編「レモン」
僕の小学校では、給食の時間になるとクラッシック音楽が流れた。「G線上のアリア」だった。
どこまでも甘やかでゆったりとした曲にのせ、放送委員の抑揚のない声が「みんなで手洗いをしましょう」と流れてくる。
僕はけして潔癖症ではなかった。むしろだらしない方だ。でも手洗いの時間が来ると、水道の前に立って10分でも20分でも洗っていた。それは一時のあいだ、僕の中だけで流行っていた遊びだった。
丹念に泡立てたクリーム状の泡で、指先から手首までをたっぷりと包み込む。厚みのある柔らかな泡のかたまりが肌をすべっていく感触は、甘やかな校内放送の調べと相まって、なんというか、気持ちのいいものだった。
学校の石鹸はレモンの形をしていた。色もレモン色だった。家にあるのもおなじ石鹸だったから、あの頃はどの家にもレモン石鹸があるのだとばかり思っていた。
かすかなレモンの匂いを感じながら、泡を上から下、下から上へと移動させていく。単純な動作によって生まれる言葉にしがたい感覚、僕はそれをもとめるのに耽っていた。それはあと数年後、僕がこっそりやるあのことに似ていた。肌にうける感覚を、僕はひとに説明したくなかった。友だちはいつまでも手洗いをやめない僕にあきれていたけど、かえって都合がいい。この遊びは、僕を学校の中で一人にしてくれた。友だち連中と僕はどこかが違うという事を、その頃から薄々感じていたのだと、思う。
祖父の一周忌をすませた夏のことだった。
小学校はすでに卒業していた。給食前の長い手洗いも、卒業した。
祖父は読書家だった。土用の頃になると、毎年おびただしい蔵書を虫干しした。その祖父が前年の春に死に、誰も読まない本ばかりが大量に残った。
「崇史、あなた虫干しして」
母は面倒なことを、男手に気安く頼む人だった。
「どうせ部活も辞めたんだし、暇でしょ」
そう言われると断りづらかった。
あの夏の僕は、いわゆる難しい年頃だった。友だちということになっている数人の少年達から、距離を置いた方が僕の為なんじゃないかということを日々考えていた。まあ、年頃らしく悩んでいた訳だ。その内容はいささか不純だったが。
1,2年前の僕は無邪気なものだった。クラスメイトがふざけて身体を巻き付けて来ると、嫌がるふりをして抱き返した。チャンスとばかりに、ね。でも長々と身体に触れている訳にはいかない。友だちの白けはじめた顔ほど見ていて落ち込むものはないと、同年代の男子が考えそうなことを僕は考えていた。僕は学校という箱を、もっとスマートに泳がなくてはいけなかった。
ホームルームでは、マイノリティの人もみんなと同じだなんて教えられたけど、僕のことを言われているようで、顔が赤くなっていないか、そればかりが気になった。顔の火照りが治まると、今度はそんな言葉だけのことが何になるんだと反抗したくなった。みんなと同じと言われたって、誰が女の子のかわりに僕とデートするのだろう?部活を辞めたのは、そんな頃だった。
母の決断は早く、虫干しは七月のある土曜日と言い渡された。
カレンダーには丸印がついている。父と母が県外に花火を観に行く日だ。まもなく蒸し風呂のような暑さがやって来る。僕一人あれやるのか、とうんざりした。
「あなただけじゃないわよ、夏輝君も手伝いに来るわ」
この人の周到な手筈は今に始まったことではないが、僕は耳をうたがった。
「一人にしたらちょっとしか進まないか、まったく進まないかのどちらかでしょ」
「でも、夏輝さんに迷惑だろ」
母はまだ夏輝さんを、気安く、僕の遊び相手になる近所のお兄ちゃん程度に思っているのだろうか。
「あら、夏輝君の方から頼んできたのよ。私が坂井さんのお宅で、おじいちゃんの本に困っている、誰か引き取り手はいないかって言ったら、虫干しを手伝うから何冊か下さいって」
母と夏輝さんの会話が目に浮かんで、僕はとてつもなく恥ずかしくなった。
僕の考えすぎかもしれないが、よそ家の子供をよぶ時、母の口ぶりには妙に馴れ馴れしい響きがあった。おまけに夏樹さんは子供という年齢でもない。母のまといつくような声に抗い、ある頃から僕は「夏輝さん」と呼んでいた。しかし彼女はそれにも気づいていない様子だった。
夏輝さんはその夏、僕の家庭教師をすることになっていた。去年は見かけなかったから、二年ぶりに会うことになる。普段は遠くの町の下宿先から大学に通っていたが、たまたま実家にいたところ母に見つかったらしい。これ以上夏輝さんについて母と話したくなかった。理由の分からない敗北感をおぼえながら、二階にあがる。けれどベッドに体を投げだした時、気がついた。夏輝さんが来る七月の週末を、僕は確かに待っていた。
眩しい光が、身体のすみずみにまで細い清流となって沁みとおる。
朝の日射しは、ふだんは怠惰な僕を、涼やかな心持ちの人間に塗り替えた。
今日明日にも梅雨明け宣言が発表されるだろうという空模様がつづいていたが、まだそこかしこに残っている雨滴が朝ばかりは涼しいひと時を与えてくれた。夏の間に幾度もめぐり合うことのない貴重な日だった。
その涼しさの余韻がまだ残る頃、夏輝さんは来た。
なんというか、やっぱり大人、だ。すがすがしい空気がこの人の顔や肩から降りて来るようで、僕はしばらく見上げていた。僕は麓から山を仰ぎ見るぺんぺん草の気分だ。
「崇ちゃん」
一言だけ僕を呼ぶと、おかしそうに頬を緩める。じっさい、僕はおかしいのだろう。ワックスできめようなんて思わなければよかった。髪はぎこちなく固まっている。でも、気にするものか。夏輝さんが前を横切った時、かいだことのない良い香りがした。水辺や樹々を思わせる匂い、でもそれらとも少し違う。なんの匂いだろうと考えているうちに、父と母があわただしい挨拶を投げて出ていく。
虫干しの本は、父が葛籠ごと縁先へ出していた。
組み立てた段ボール箱を庭先に並べていく。
その上に古本を、表紙を上に向け置いていくと、始めの一冊を夏輝さんが取り上げた。ページの中程を開き、段ボール箱へ垂直に立てる。
「本を並べるだけじゃないんだね」
夏輝さんの指遣いは、生前の祖父のしごとを思い起こさせた。
「おれもよく知らないけど、こうしたら風がよく通るんじゃないかな」
僕も真似をして、一冊の本を開き、箱の上へと立ててみた。他愛もない会話のせいなのか。明るい雨が地面に沁みとおっていくような、安らいだ感覚をおぼえていた。ひさしぶりに会う夏輝さんに何となく感じていた隔たりが、この時消えていた。
気がつくと夏輝さんの鼻先をみていた。すんなりとした鼻筋のさきにある、そこだけやけに愛嬌づいた形。いつかどこかで、この鼻とよく似た鼻の人を見た気がして、不思議でならなかった。
何のことはない。
単純な答えに僕はおかしくなった。僕が子供の時に、誰でもない、夏輝さんの鼻先をこの庭で眺めていた。それは遊びの時間が、明日も明後日も、この先もずっとあると思っていた日のことだ。やがて僕の記憶は、庭をぬけ、木戸を越え、家のちかくの草原やその先の土手へと広がった。少年の夏輝さん、見つめているのは一匹の蜻蛉だった。草の上にとまった蜻蛉は、息をひそめている。その微かな呼吸にあわせ、草が揺れる。僕は夏輝さんの真剣な横顔と蜻蛉を、かわるがわる見る。丸い鼻先を見つめ、成功を祈った。
夏輝さんは草をむしるのが癖だった。夏輝さんが白茅をむしると、僕もむしる。
ゆび、気をつけな。
僕を守るような夏輝さんの声。何度か、未熟な皮膚に血の赤い条を走らせた。
草笛をつくった。本物の草笛なんて、見たことがない。夏輝さんも知らない。丸めた草を夏輝さんが口に当てる。ぼくも自分の草をまるめ、口へ当てがった。うまく音は鳴らない。やがて夏輝さんの草笛から、空気を震わせる音が飛び出す。ぼくはうれしくなる。夏輝さんが一回り大きく見える。ぼくの草笛からも、音が鳴る。二人して、何回に一回かしか鳴らない草笛が楽しくて、顔をほころばせる。
作り方を知らない草笛は、遊びではなく遊びの真似ごとだ。大人になってから振り返ると、僕の子供時代の遊びは、どれもが靄がかったまぶしい光を帯びていた。傾き始めた午後の日射しのような、金色の靄。その靄のせいで、どの遊びも遊びというより遊びの真似ごと、何処か遠いところにある本物の遊びが、地上に落とした遊びの映し絵のように感じられるのだ。それはたとえば、夏輝さんの後を着いて草原まで行ったことや、彼の差し出す鍬形虫をはじめて摘まんだこと。夏輝さんの草笛を借りて僕の口に当てたこと。
まだ他の記憶にも、金色の靄は広がっている。指先に浮かぶ血の一滴をなめてもらったこと。その間、薄桃色の唇が動くのを、神秘的な出来事であるかのように見つめていたこと。そしてもう少し成長した僕が、レモン色の石鹸の泡でいつまでも僕自身の指を包みこんでいたこと。
午前中に祖父の蔵書を並べ終わった。
本の列は段ボール箱だけでは足りずに、濡れ縁にも続いた。夏輝さんは濡れ縁の隙に腰掛けている。袖をまくり上げ剥き出しになった肩を、僕は横から見ていた。もうすでに大人の三角筋、それに大人の腋だった。腕がのびて、まぶしい日射しが腋窩に滑り込むと、その部分の体毛を一瞬燃えるように耀かせる。光で膨張したそれは実際よりも濃やかな毛並みに見え、僕は図らずも息苦しくなった。伸ばした腕は、一冊の本をつかんでいる。表紙に何かの絵画が印刷されていた。
「今日のバイト代は、これにしよう」
夏輝さんは欲しい本を見繕っていたのだ。僕の眼が奪われていた先を、夏輝さんに悟られなかっただろうか。平静を装い、母がちゃんとお礼を出すよと言いながら、ひらいたページを覗き込む。昔の日本人が筆で描いた絵画ばかりだ。本の題名を僕は訊ねた。
「病の草紙。平安時代の絵巻だよ。この本は、それを写真に納めたものだけど」
その頃の絵師が病に罹った人々を絵筆にしたためたのだと、夏輝さんは言う。
福祉学の課題でちょっと使えそうだと言いながら、ページをめくっていく。描かれているのは、病人とそれを見つめる人々。見つめる人は、看病で寄り添っているばかりではなかった。興味本位で面白そうにのぞき込む眼も、描かれている。むしろそんな人達の方が多かった。そんな風俗を一つ一つ、夏輝さんの真面目な、人のこころを透かし見るような眼が見ている。
「陰虱」
そう題されたページで、指が止まる。夏輝さんの口の端がゆるむ。
「見てみな」
言われなくても、僕の眼は絵の男にくぎ付けになっていた。頭に烏帽子を載せた男が、服の前をはだけていた。片手には剃刀を持ち、もう片方の手で彼のペニスを引っ張っている。誇張され、まるでゴムのようにのびたペニス。その周囲に描かれているのは、普段なら衣服に隠れているはずの体毛で、男は真剣な目つきで彼自身の下腹部を見ている。
「あそこの毛に虱を伝染された男だって。虱退治に毛を剃ってるんだ」
男の背後には、好奇心を抑えられないといった様子で覗く女性が描かれていた。愉快そうに笑った口から、鉄漿が剥き出しになっている。みっしり揃ったその黒さを、見続けてはいけない気がした。
男のペニスは、本物のそれによく似ている訳ではなかった。それでも僕はまだ、そんな絵にも心臓が高鳴ってしまう少年だった。夏輝さんの口もとには、ほほえんだ後の翳が薄く引かれていたけれど、清潔だ。絵巻を課題の材料として観察する引き締まった顔つきに戻っている。その潔い真面目さは、夏輝さんへの後ろめたさが僕の中にあることを、明白にさせた。
「昼ごはん、用意してくるよ」
僕は濡れ縁を立ち上がった。
冷蔵庫を開ける。
かなりの量の握り飯と厚い卵焼きが、ラップフィルムをかけて大皿に盛られていた。母に、唐揚げ作るの得意でしょと言われ、僕の揚げた唐揚げもあった。大したことじゃない、ニッシンの唐揚げ粉をまぶして油に突っ込むだけだ。
背後に夏輝さんが立つ。鼻がスーッとするような香りがする。夏輝さんの膚に冷蔵庫の冷気があたって、今朝の香りが新鮮さを回復していた。
「お、美味そう」
顔を向けると、袖をまくり上げた肩が目に飛び込んだ。
僕はさっき見てしまった部分を意識しないようにしながら、冷えたサイダーを渡す。
「手、洗ってくる」
洗面所の鏡の前に立つと、鼻の先端にあの香りがのこっていた。
レモンの香りだ。
けれどレモン石鹸のほのかに甘い、丸みをおびた香りとは違う。わずかな苦みが混ざっていて、それでいて鼻を抜けるときにはスッキリとしている。かいでいると、真っ青な空と海の広がる場処へ連れていかれそうな、爽やかさ。香水なのか、コロンなのか。僕の知らない夏輝さんがいた。あの香りを膚に滴らせた夏輝さんは、いつ何処で、誰と会っているのだろう。僕ときたら、香水とコロンの違いも知らないのだ。
洗面所は蒸していた。首のあたりに汗の粘つきを感じ、Tシャツをぬぐ。近ごろの僕は、鏡の前で自分の身体を点検せずにはいられない癖がついていた。胸の筋肉が、うすく、けれど丸く盛り上がっている。腕を曲げると、上腕の筋肉が青くて固い果実みたいに浮き出た。肘を上げ、腋窩を映す。薄ぼんやりと煙ったような体毛、夏輝さんが僕を驚かせたあの密度に、まだ及ばなかった。顔を傾け、鼻先を近づける。庭の日射しの中に存在したあの夏輝さんが僕のここにあるかのように、しずかな呼吸を試みた。
洗面所のドアが開く。
とつぜん夏輝さんが入ってきた。それもトランクス一丁だった。
「暑い。シャワーかして」
僕は奇妙なかっこうで凝固してしまった。夏輝さんが目だけで驚いて僕を見る。ついで含み笑いだ。最悪だ。
「崇ちゃん、せくしぃ」
せくしぃとはsexyのことなのか、なんて考えているうちに、果物を剥くように夏輝さんはトランクスも脱いでいた。僕の目は、僕を簡単に裏切る。素朴な驚きを抑えられなかった。夏輝さんは僕の視線が当たっているのも平気だ。
「なつかしいなあ、この風呂場」
ふり返ると、なぜかたのしそうな顔をしていた。
「いっしょに入ろうか」
それは、一点の翳りもない青空に立ち上るレモンの香りのような声だ。僕はつい頷いていた。
「じゃ、おいでよ」
ガラス戸を閉じても、笑顔の余韻が濃やかにただよっている。下着の中では困った反応が起きていた。そのくせ、今しがた夏輝さんのあそこのサイズにびっくりしたのは、ひょっとしたら少し反応していた所為なのかも、なんて考えが頭に浮かび、ますます困った状態になっていく。でもそんなのは一瞬の間のことで、ガラス越しのシャワーの音は渇いた喉をいざなって、たっぷりと乱れ打ちだ。どうともなれ。洗濯籠のふちに掛けてある夏輝さんのトランクスに、僕のトランクスを投げるように重ね、ガラス戸を押し開けた。
しゅわっ。
いきなりシャワーを掛けられた。足をすべらせると、夏輝さんが僕の腕を掴む。ごめん。そう言ったと思うけど、僕は触れ合った膚に気を取られていた。僕とおなじように反応してしまった夏輝さんが、腿のつけ根あたりに当たっている。僕のも夏輝さんに当たっている。夏輝さんの手が背中に触れる。僕の知らない顔をした夏輝さんが、僕を見ている。純情そうな、どういう訳か、僕より年下風の表情。遠い夏、白茅の葉で切ったと言って夏輝さんにさしだした頼りない指先が、背にそっと置かれている指の息づかいに重なる。夏輝さんの膚に沈みこむように、身体を押し当てる。
〝いっしょに入ろうか〟
言い方って大事だ。あの言葉がもし、「いっしょに入るか」だったら「何言ってんだよ」と茶化しただろうし、「入りたい?」と訊かれても逃げただろう。一つのシャワーからほとばしる水は、二人が重なった一つの身体に注ぎ、分水嶺から夏輝さんの膚と僕の膚へと岐れていく。今ここにあるこの状態は、ちいさな偶然の先の、もしかしたら存在しなかったかもしれないささやかな、でも何にも代えがたい奇跡なのだ。夏輝さんはレモン石鹸を手に取ると、泡立てネットでたっぷりとした泡をつくった。僕は丹念に洗われていく。首。胸。腋。腹筋。そして。なめらかな泡が僕のペニスを包みこむ。いま僕は、この人の玩具であっても、構わない。
「……なっちゃん」
僕の口からは、小さいころに夏輝さんをそう呼んだ名がもれていた。唇は僕の輪郭線がなくなってしまいそうなやさしさを伝え、手のひらは身がのけぞるような切なさを教えた。僕はそれらを全部、僕の身体を使って夏輝さんに還したかった。感謝にも似た気持ちで、僕は夏輝さんの身体に尽くしたかった。
ずっと誰にも言わずにいた事があった。なんのことはない。僕は男のひとが好きだった。男の身体が好きだった。男のペニスに触れたいと思っていた。僕の身体から離れた泡が、ゆっくり旋回しながら排水口へと流れていく。ずっと黙っていた言葉たちは、声にして言ってもいい言葉に生まれ変わっていた。
西日の甘い茜色が射し込むころ、夏輝さんは帰って行った。
「夏休み、また来るよ」
家庭教師の授業が始まる。
「ちゃんと予習しておけよ」
「大丈夫」
「おれの教え方はきびしいぞ」
そう言う夏輝さんの目は黒蜜がかかったように濡れ、夕日の中でやわらいでいる。
道に長く伸びた影を、忘れてはならない約束事のように見送った。
終
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