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俺の後輩が職場でパスタを茹でているんだが
朝の通勤電車はまだピーク時間帯の前だった。スーツ姿の乗客がちらほらいる程度で、比較的ゆったりとした空間。俺はつり革につかまりながら、うとうとと瞼を閉じかけていた。
ふと目を開けるとドア近くに見慣れた後ろ姿がある。整髪料で固めた髪と背筋の伸びた立ち姿からして、間違いなくうちの会社の後輩・佐々木だ。
彼のもとへ行って声をかけようかと思ったが、佐々木の顔があまりにも恐ろしい形相をしていたので思わず声を飲み込む。彼はものすごい剣幕でスマホの画面を睨みつけていた。
普段クールなあいつがここまで感情むき出しになることなんてあるのか? 目を合わせたら、なにか面倒事に巻き込まれそうだ。俺は知らないフリを貫くことにした。
降車駅に着くと、佐々木はスッとスマホをしまい、いつもの何食わぬ顔に戻って歩き出した。改札に向かう彼の後ろ姿を追いかけるようにして、俺も慌てて降りる。ホームに降り立つと、淡々と歩く佐々木の横に並んだ。
「おはよう。いつもこの時間なんだな。おい、さっき車内で何見てたんだ? 凄い顔してたぞ」
佐々木はバツが悪そうに頭を掻いた。
「おはようございます、先輩。見られてましたか。いや、お恥ずかしい。ちょっとした“怒活”をしていたんですよ」
「ドカツ? なんだそれ?」
「怒りに活動の“活”と書いて“怒活”です。衝動的に怒りを爆発させないように、毎日こうやってスマホで動画を見てトレーニングしてるんです。ほら、見てください」
そう言って見せられたスマホの画面には、ウサギなのかネコなのか区別がつかない謎のアニメキャラクターが映っていた。マスコットのような見た目をしていて可愛らしいが、赤い目が少し怖い。
「毎日こいつのセリフを聞き、顔を見ながら出勤するんです。そしたらどんなクソ上司もこいつよりはかわいく思えるからオススメです」
たくさん泣いてスッキリする“涙活”、たくさん笑ってストレス発散する“笑活”なら聞いたことあるが、“怒活”は知らない。アンガーマネジメントなら知っている。
ドカツね…。俺ならフラストレーションが溜まって、逆に上司を殴ってしまうかもしれない。まあ、佐々木がそれでうまくいってるなら何も言うまい。そう思いながら、俺たちは改札を抜けて会社の方向へと歩いた。
途中、会社近くのスターバックスの前で、佐々木が足を止める。
「すみません、僕いつもここでコーヒー買って行くんです。先輩は?」
「スタバか。たまにはいいかな。俺も買って行こう」
そう言いながら店内へ入った。ドリップコーヒーを注文した俺の横で、なにやら佐々木がやたらと長い注文をつけている。
「キャラメルフラペチーノにエスプレッソショットを1杯追加、ホイップクリームは増量でお願いします。チョコレートソースとキャラメルソースをダブルでトッピングしてもらって、ミルクは低脂肪乳に変更してください。あ、サイズはベンティです」
「べ、ベンティ? なになになに? なんて言った?」
「なにって…。キャラメルフラペチーノですよ、普通の。先輩こそなんですか、それ」
佐々木は呆れたように言って、受け取った飲み物にシナモンパウダーを振りかけている。
「いやいや、これは普通のブラックコーヒーだよ。お前のそれ普通じゃないぞ」
そんなやりとりをしながら、俺たちはスタバの紙カップ(佐々木はタンブラーだった)を手に会社へ向かった。途中、同じ部署の女性社員、安田さんとすれ違う。
「おはようございます。ふたりでご一緒なんて珍しいですね」
「ああ、たまたまそこで会ってさ。俺はやることがあって早く来たんだけど、安田さんも早いんだな」
「はい、早く来て早く帰りたい派なんです。佐々木さんも朝早くから休憩室で読書してますよね。勉強熱心ですごいなって思います」
すると、佐々木は照れくさそうに笑う。
「いやー、僕なんてまだまだですよ。毎日少しずつ成長していければと」
安田さんが去ったあと、俺は思わず聞いてしまう。
「お前にそんな習慣があったとはな。いつもなに読んでるんだ?」
「ふふふ。見てください、先輩」
取り出されたのは『LOVE理論』と書かれた本。
「おい! ぜんぜん勉強してねえじゃないか! 仕事の本でも読んでるのかと思ったのに」
「何言ってるんですか。これも立派な勉強ですよ。おまけに、周りにも知的な印象を与えますし一石二鳥です」
「お前、自由人のくせして計算高いのほんと腹立つな!」
思わず溜め息をつく。とはいえ、佐々木は仕事ができる。そこが一番悔しいところで、上司だろうと同僚だろうと、みんな文句のつけようがないのだ。
午前中、佐々木はサクサクと案件を片付けてしまい、昼食時にはさっさと姿を消した。俺もひと段落したので社員食堂へ向かったところ、なんと食堂の端で簡易コンロを持ち込んで、パスタを茹でている男がいるではないか。
「おいおいおいおい! なにしてんの!」
心から不思議そうな顔をして返答する佐々木。
「なにって…。パスタ茹でてます。見ればわかるでしょ」
「そうじゃなくて…。ここ、会社!」
「そうですが」
「そうですが。じゃないでしょ! 会社で料理するなよ!」
「ながの社長みたいなこと言わないでくださいよ」
「おいおいおいおい! …って知ってんじゃねえか!」
「もうすぐできます。先輩も食べますか?」
「……あ? 食う」
出されたのはプッタネスカだった。
「娼婦風のパスタって意味です。イタリアでは定番ですよ。会社でもパッと作れるので、みなさんも是非真似してみてください」
「誰に向かって話してるんだよ。いねえよ、そんなヤツ。どれどれ…ッ! ウ、ウマーイ!」
「こんなところで大声出さないでください」
午後も佐々木はバリバリと仕事をこなし、定時の鐘とともに席を立った。たまには飲みに行こうぜと声をかけたとたん、露骨に嫌な顔をしながらこう答えた。
「申し訳ないですが、今日のところは失礼します。これから推しの配信がありますので」
「おお…。今どきの若者らしい反応されると、俺もトシを感じる…。それはあれか、YouTuberか」
「ええ、まあ。VTuberですが」
「VTuber! いや、俺もそれなりにわかるぞ! にじさんじか? それともホロライブだろう?」
「いえ、旅野そらです」
「ときのそら、か。ホロライブだな」
「先輩も案外VTuber詳しそうですね…。でも違います。旅野そらです」
ここで俺も思わずニヤッと笑う。
「俺をなめるなよ! 実は旅野そらってヤツも知ってんだ! 彼女なら配信はだいたい21時のはずだ! まだこの時間なら早い! よし飲みに行くぞ!」
さすがの佐々木も今回ばかりは狼狽える。
「ちっ、これは侮りました。やけに先輩はYouTube事情に詳しいと思いましたが…。そうだ! それ、アルハラです! 帰ります!」
「いや、アルハラは酒を強要することを言うんだ! ウーロン茶で付き合ってくれてもいいぞ!」
「そんなつまらない飲み会行くわけないでしょ! 帰ります!」
「配信までまだ時間あるだろ! 一杯だけ! なあ!」
「必死過ぎ! 他誘えば良いでしょ! どんだけ友達いないんですか!」
「ホントのこと言わないで! 飲みたい! 飲みたい!」
「飲みたいだけじゃないですか!」
こうして俺たちは駅近くの居酒屋に腰を落ち着けた。佐々木はハイボールを一杯だけ注文し、その一杯を飲み干すと「では失礼します」と言って、きっちりと約束通りに去っていった。
ひとり残された俺は、これから配信予定という佐々木の推しのチャンネルを覗いた。
【実写】闇に包まれた北朝鮮の絶品グルメを作って食べる!【現地で習った】
「……こりゃ勝てんわ」