20241005_『虎に翼』と『水ダウ』、2024年の相克。

 先月末、朝ドラを超えた朝ドラ『虎に翼』がついに大団円を迎えました。
 この日本映像史に燦然とその名を残すこと必至な稀代の大傑作について、このnoteでも書き下ろしで何かを残そうと思ったのですが、語り倒したいポイントがあまりに多すぎて、お恥ずかしながらそれらをテキストに落とし込む脳内の情報処理が、いつまで経ってもいっこうに進みません。
 なので、今回のこのnoteでは、僕なりのオリジナリティ(?)がある程度発揮できそうな立ち位置から『虎に翼』について“いっちょかみ”することに集中して、安易ですがまたしても過去のtwitterツリーを、多少再加工しつつ再録することにしたいと思います。

「トラつば的」と「水ダウ的」の分断

 稀代の朝ドラ『虎に翼』の凄さといえば、女性のみならず在日コリアン、セクシャル・マイノリティ、原爆被爆者、さらにはホモソーシャルに取り残された男たちまで、様々なマイノリティの痛みをこれでもかと描き切ったこと。
 さらに、日本国憲法14条の意義を高らかに謳いあげ、改憲を目論む現行権力にはっきりと弓を引く極上のプロテスト・エンタテインメントであること……などが挙げられます。
 これらの素晴らしさについては、すでに様々な方が、もっと明確かつ美麗な表現で語り尽くしてきたと思います。

 僕が個人的に挙げたい『虎に翼』の凄さとはまず、現在にはびこるホモソーシャル、ミソジニー、ポピュリズム、レイシズムといった男根的な価値観に「はて?」と理想主義の刃で真っ向から立ち向かうことによって、2020年代のカルチャーの代表選手として、たった半年で確固たる地位を築いたこと。
 もっと言うと、カルチャーの先人たちが誰もなし得なかった、90年代の露悪主義、2000年代のイキり主義に代わるオルタナティヴの提示を、『虎に翼』がものの見事に成し遂げてみせたこと。個人的には、『虎に翼』の凄さとは、ここに尽きるわけです。

 特に『虎に翼』がドロップされた今年=2024年には、90〜00年代カルチャーの残り香をまとう『水曜日のダウンタウン』が、コロナ禍を嗤い飛ばす「説」で医療従事者を中心とする層から大顰蹙を買う出来事がありました。「アンチコンプラ」を金科玉条とし、反道徳・反倫理に凝り固まった水ダウ信者たちが、その顰蹙に猛反発しましたが、その言葉の数々には、反科学・反医療(ヘタをしたら反ワクチン・反マスクも含む)と魔合体したおぞましさを感じました。
 この2020年代において、「良識」や「正論」に唾する反道徳・反倫理は、時代錯誤で滑稽に映ると個人的には思うのですが、この2024年は、『水ダウ』の「コロナ説」をきっかけに「トラつば的なるもの」と「水ダウ的なるもの」の分断が露わになった一年ともいえるのではないでしょうか。

 ここからは「『虎に翼』を語る」という本筋からは大いに脱線しますが、90年代の露悪主義に端を発し、2000年代のイキり主義に発展した、ここ30年来のホモソーシャル特化型サブカルについて、僕なりの見解を綴っていきます。

肥大化するホモソ型サブカル

 90年代にホモソーシャル特化型サブカルが一つの潮流として可視化できるようになったのは、オピニオンリーダー的な役割を担った雑誌たちの存在がデカかったと思います。
 『rockin' on』(というか『JAPAN』?)〜初期『Quick Japan』のラインで熟成された90年代の雑誌発サブカル、そこに居場所見出せずあぶれたインセル層が駆け込み寺のように『GON!』と『BUBKA』に飛びついて、ホモソーシャルに特化したもう一つの雑誌発サブカルの潮流が生まれた。個人的にはそう解釈しております。
 サブカルとは違うけど、90年代の雑誌文化というと『週刊プロレス』の存在もやはりデカくって、ターザン山本退陣後の週プロと現在進行形の90年代プロレスに満足いかない層のニーズに『紙のプロレス』がガチッとハマって、紙プロも「雑誌発サブカルのもう一つの潮流」に食い込んでいった印象があります。
 この「もう一つの雑誌発サブカル」は、2000年代初頭に絶頂期でしたね。当時、モーニング娘。と(昭和プロレスファンの殺伐の渇望を満たした)PRIDEがほぼ同時期に黄金時代を迎えたのがデカかったと思います。当時『Kamipro』は、もはや週プロから業界のクラスマガジンの座を奪ったかのように見えました。

 この「もう一つの雑誌発サブカル」は、『映画秘宝』も巻き込んで、初期ネット〜2ちゃん〜mixiとインターネットの発達も相まって、2000年代にさらに大きく育っていった印象です。
 90年代後半、偏った趣味のインセルなオタク層に「サブカル」という翼を授けたのが、『紙のプロレス』『BUBKA』『映画秘宝』らのホモソーシャル文化を担う雑誌群だったと思います。
 90年代後半に同時多発的に勃興したこれらの雑誌文化は、ホモソーシャル特化型サブカルとして時代の一潮流を創っていたのは確かです。
 しかも当時、インターネットが一般層まで爆発的に普及したおかげで、それまでじっと息をひそめて生きてきたインセル層が「そっくりな趣味を持つ顔の見えない誰か」の存在を可視化できたことで、彼らのライフスタイルに革命が起こりました。「プロレス」「アイドル」「暴力映画」と、それぞれの棲み分けで交わらずに生きてきたはずのオタクたちが、2000年代に入りネットがますます隆盛し、お互いのクロスオーバーが始まり連帯し始めることで、ホモソ特化型サブカルの潮流は一本化に向かい、ますます強固になっていった記憶があります。

 そして2000年代初頭。鶏が先か卵が先か、ジャンルの巨大化がオタクを肥大化させたのか、オタクの集結した自意識がジャンルを怪物化させたのか。彼らホモソ特化型サブカルの担い手たちの隆盛と、当時の「PRIDE」「モーニング娘。」の巨大化は、相互に影響を与え合った時代の産物と思えてなりません。
 映画でいうと、『キル・ビル』の公開が2003年でしたね。やはり2000年代は、90年代に可視化されたホモソ特化型サブカルが大輪の花を咲かせた季節だったといえるでしょう。
 ネットに出会うまでは隠れキリシタンのように秘められていた彼らの自意識は、2000年代の成功と隆盛でついに「イキり」に昇華した……といえるのではないでしょうか。

イキりはやがて、ポピュリズムへ

 さて、「2000年代のイキり」ということで、ここで蛇足ですが……今まで挙げたホモソサブカルとは出どころは全く別なのですが、『ガチンコ!』あたりを代表とし、亀田ファミリーの台頭で頂点を迎える不良礼賛文化も、2000年代の象徴といえますね。
 不良礼賛文化のあの空気、『IWGP』のマコトが「俺バカだからわかんねーけどよ?」と前置きしてからズバリ本質衝くのがカッコよかったあの時代の空気ですね。あの「知性より本音」の空気は、その後のポピュリズムの台頭と日本の右傾化に繋がっていくわけですが。
 ホモソ特化型サブカルと不良礼賛文化、出どころはまったく違うけれども、ともに2000年代の空気を創り、しかも根っこにホモソーシャルがあるのは共通しています。そこに、畑違いの両者が左翼的な理想主義を嫌うあまり、結果として日本の右傾化をアシストしてしまう事態のカギがあると思われます。

90〜00年代の鬼っ子、水ダウ

 ……で、ここでやっと『水曜日のダウンタウン』なのですが。水ダウ……というか藤井健太郎ですね。水ダウでのプロレスラー&格闘家の重宝ぶり、彼の『KAMINOGE』との蜜月ぶりからして、この人物の根っこに『紙プロ』文化があることは明らかと思われます。
 紙プロ文化+IVS(テリー伊藤)直系のお笑い文化、が藤井健太郎のルーツでしょうか。紙プロ周辺のルーツを匂わせながらメディアの寵児となった彼は、90〜00年代ホモソーシャル特化型カルチャーの申し子といえるかもしれません。

そして閉塞に「はて?」と問う時代

 さて、現在の2020年代。震災とコロナを経て分断は進み、経済の停滞と衰退も止まらず、ポピュリズムと右傾化で膠着したままの社会に「はて?」と問い直す動きが活発化しているのが、今だと思います。
 90〜00年代には「見えなかった」マイノリティたちの声なき声が可視化できるようになったのが、スマホが発達して誰もがSNSを駆使できるようになった2010年台以降だと思われます。彼らの人権と痛みに配慮し、平等と理想に邁進するのが2020年代の価値観です。「知性より本音」がいつしかポピュリズムに傾いていったここ20年の閉塞に、「そうじゃないだろ!」と敢然と反旗を翻すのが、2020年代の理想主義です。

“攻めた笑い”のメカニズム

 90年代後半に勃興した野郎寄りサブカルのホモソーシャルは、2000年代に不良礼賛文化ともクロスオーバーしながら「イキり」として隆盛を極めるわけですが……
 イキりの本質とは、動物的な行動原理を尊ぶ「本能主義」なのではないでしょうか。知性、理性、道徳、倫理を敵視し、身も蓋もない本音を金科玉条として生きる。そしてその本音は、理性や倫理から、遠ければ遠いほどカッコよいとされる。
 ホモソーシャル→イキり文化の最後の尖兵・水ダウで「やりすぎ」「見ててしんどい」といわれる類の笑いのメカニズムは、「イケてない奴、群れからはぐれる奴を嗤うのは楽しい」という、身も蓋もないどうしようもない本音に根ざしています。言うまでもなくこの種の本音は、結果的に差別を肯定するレイシズムの温床となります。水ダウの“攻めた”企画を観た時に抱くモヤモヤ、ザワザワの違和感の正体は、観た人が差別と排除の肯定を感じとっているからに違いありません。
 先日に水ダウが、コロナ対策を誇張して嗤う説で猛反発を浴びた際、アンチコンプラに凝り固まった水ダウ信者たちが医療従事者に浴びせた罵声のツイートは、どれも見るに堪えないものでした。
 アンチコンプラが行動原理の水ダウ信者と反科学・反医療の親和性の高さを目の当たりにしたことで、ホモソーシャル→イキりの思考が、知性・理性・倫理・道徳・科学のあらゆるアンチテーゼを呼び込み、やがて必然的にポピュリズムとレイシズムに繋がっていくメカニズムを垣間見た次第です。
 ポピュリズムは現在、全世界を共通して席巻している現象ですが、この日本においても、ホモソーシャル→イキりの風潮を巧みに取り込み、権力の掌握にまんまと成功したのが、この20年の保守勢力だったと思います。
 ポピュリズムと右傾化の席巻と支配で閉塞した社会を打破すべく、民主主義の徹底と反差別を掲げる理想主義がカウンターと化して大きな波を生み始めているのが、ただ今の2020年代です。

「元年」としての2024年

 そして、戦中戦後の昭和を描きながら現代のマイノリティに通底する痛みを照射する極上のプロテスト・エンタテインメント『虎に翼』が産み落とされ、流血革命を誇るべき歴史として高らかに称揚する五輪開会式がパリで開かれ、京都国際高校の優勝で甲子園に韓国語の校歌が朗々と鳴り響き、トランプの復権を阻止すべく、米国リベラリズムの真打ちにして切り札のカマラ・ハリスがついに大統領選に立ち上がる……と、カウンターの理想主義の“うねり”がいよいよ顕在化してきたのが、今まさに我々が生きている2024年なのです。
 そして2024年は、独裁者然とした傲慢な女遊びを愉しんでいた松っちゃん(松本人志)と、「やす子オリンピック」の平等博愛を真っ向から否定する暴言を浴びせたフワちゃんが、ともに表舞台から退場していった年でもあります。
 松っちゃん退場後の水ダウは、不在の穴を埋めるべく、持ち前の不穏度・不遜度をさらに先鋭化しているように見えますが、例のコロナ説をきっかけに、この2024年の“うねり”に押し流される「終わりの始まり」が見え始めたように思えてなりません。

 かつて若き日に、エロ本の白黒ページのコラムを隅々まで眺めエロ本に憧れ、エロ本にも就職した僕は、ホモソーシャル特化型サブカルどっぷりの出自です。
 そこから精神科看護師に転職し、仕事柄「今まで発信ができなかった人たち」の痛みに敏感になったこと、看護師転身後に観たNHKドラマ『透明なゆりかご』に女性観・性愛観が一新するほどの衝撃を受けたこと、沖縄への一人旅で「ついでだから見てみるか」と軽い気持ちで寄ったひめゆりの塔で戦争の罪深さをとことん思い知らされたこと……等々を経て、僕の価値観はエロ本屋時代からガラリと変わりました。そして今は、2024年の理想主義を信奉しています。

 今の僕は、2024年の理想主義が、2000年代のイキりから発展したポピュリズムとレイシズムを洗い流し勝利する、その瞬間を待ちわびています。
 そしてその勝利を、理想と優しさに包まれた世界の実現を信じ、最期まで「うーとーとー」していたりゅうちぇるさんに捧げたいのです。

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