想い合う気持ちに、距離なんて関係ない。
土地を離れた瞬間に、それまで関わっていた人や場所との縁が切れるわけではないと思いながら、何もしていないと縁が切れてしまうのではないかと恐れている自分がいた。
そう思うのは、コロナウイルスによって気軽に会えない日を経験し、今まで過ごした静岡・東京から飛行機でなければすぐに辿り着けない、島根県益田市という土地に移動したことが大きかったと思う。
自分の振る舞い、行動ひとつで、人との関係性はガラスのように壊れてしまう。それを知っているからこそ、益田を離れて2年3ヶ月が経過しても、当時と変わらず仲良くしてくれている、自分のことを心配・応援してくれる人がいることに、感謝でしかない。そして「これは当たり前ではないぞ、自分」と言い聞かせたくなる。
ここ4年、毎日日記を書いているからか、社会人なりたての頃よりも時間に抗えている気がする。高校生か大学生の頃にどこかで耳にした「初めて経験することが減るから、大人になると時間の経過が早くなる」という言葉が強く残っているし、人との関わり・交わりがあればあるほど、1日・1ヶ月・1年と充実したものになる気がしている。
益田から裾野(静岡)に戻って3年目。
定期的に便りをくれる喫茶店のお姉さん、誕生日のときに自分が好きだった醤油を送ってくれる隣の家だった漁師さん、仕事きっかけで出会ったものの兄貴のように仲良くしてくれた方。益田に帰るたびにご飯をご馳走になったり、泊まらせてくれたりするご夫婦。多分ここにはあげきれないほど、離れた場所に自分のことを思ってくれる人がいる。そして、自分もその人たちのことが大好きで、静岡の美味しいお茶を贈らせてもらったり、手紙を書いたりして、益田にいたときと変わりなく「ギフトの贈りあいっこ」をしているようだ。
先日公開になった山中 散歩さんとのラジオ の中で、
人との関係性が途切れてしまう怖さを吐露させてもらった。
冒頭に書いたように、ひとつの振る舞いや行動・言動で関係性が壊れてしまう怖れがある一方で、丁寧に作ってきた関係性は、そう簡単には崩れないのかもしれないとも思う。
SNSで連絡を重ねている人と数年後には連絡を取り合わない可能性もあるし、長期間連絡を取っていなかったけど久しぶりに連絡を取ってご飯にいくことになった人もいる。関係性・思い合う気持ちって、住んでいる場所とか、交わした言葉の数とかではなく、その人との間で築かれた関係性(それが出来るまでの過程を含めて)や信頼の束みたいなものが大事なんだと。
「関係性を続けたい」だから関わりしろを作り続けるというよりも、
「友達に喜んで欲しい」くらいの温度感と、尊敬・尊重の気持ちを持ちながら関わり続けられれば、一度確立した関係性の崩壊は起こりにくい。そんな仮定を持ちながら、今日も誰かと関わっていく。