悩ましい国語辞典 神永暁 角川ソフィア文庫
まえがき
息子、20代、独立して一人暮らし中。私、60代、配偶者と二人暮らし。
息子と私は、当然のこととして、一世代違っている。私も息子も本好きという点は共通だが、息子の部屋に並んでいる本の95%は、私が自分じゃ選ばないし買わないという本だ。そういう本をあえて読む。つまり、自分だけではその存在を知ることもなく触れることもなかった世界に息子の蔵書を借りることで触れる。
「息子の蔵書を借りて読む」と題してnoteで書いている一連の文章は、読書感想文ではないし、あらすじや内容の紹介でもない。本を読んでインスパイアされ、浮かんできたことを書いたものである。下記はその中の1つである。
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悩ましい国語辞典 神永暁
友人たちとの間で、「どういう人間が一番の変態か決めようじゃないか」という話題になったことがある。甲曰く、「歯医者が大好きな人」。乙曰く「税金を納めるのが生きがいという人」。なかなか全員の意見が一致するのは難しかったが、最後に、全員が「ああ、それそれ、それは絶対に極度の変態だ。間違いない。」ということになったのが、辞書の編纂者であった。
「次は、この本なんだけどねえ」とためらいを見せつつ息子が黒のバッグから取り出したのが「悩ましい国語辞典」。著者は国語辞典の編纂にたずさわってきた人。これがエッセーのネタになり得る本か、息子にはよくわからんとのこと。
私「いいんだよ、なんでも。どんな本でも結局は自分のことに引き寄せて書いてるんだから。」
息子「うん、そのぶっ飛びが面白いんだけどね」
っていうことで、この本を読む。
私が子供のころ、自分が書いた文章が活字になるなんて夢のまた夢だった。エライ人たちが書いたものでなければ活字になんかしてもらえなかった。コピー機もなく、印刷といえば手書きガリ版だった時代。自分が書いた文章が始めて活字になったのは何だったか覚えていないが、手の舞い、足の踏むところを知らずという状態になったことははっきりと覚えている。
それが、ワープロの普及に伴って、誰のどんな文章でも活字、あるいは活字体になるようになった。そのことがなければ私のこの文章も打ち込むことができなかったので、ありがたいことなのだが、文化的側面からいうと、日本語をよく知らない文章が、あるいは日本語への誤解にあふれた文章が世の中に氾濫するということにもなったわけである。
辞書の編纂者が言葉を辞書に収録するときには、現実世界での実際の用例が重要となる。昔ながらの正しい意味のまま現代も使われているとは限らないからだ。時代が変わったのにつれて意識的に意味が変わった語はまだ良い。やっかいなのは無自覚の誤用が広まってしまっているときだ。世間で使われている表現ではあるが日本語としておかしい、そういう語や表現に対して言葉のプロフェッショナルとして敢然と誤りを指摘するのか、指摘したところでみんなが使ってしまっているからと許容するのか、悩ましいところである。
今書いたばかりの「悩ましい」について本書にはこう書いてある。
(引用)
現代語の「悩ましい」は、「悩ましい姿態」などのように官能が刺激されて心が乱れる思いであるという意味に使われることが多い。したがって、最近まではその意味しか載せていない国語辞典がほとんどであった、、、、、だが、近年になって、「どちらを選択するか悩ましい問題だ」のように、どうしたらいいか悩んでいる状態であるという意味の用法が広まりつつあるのである」(引用終わり)
新解さん(三省堂の「新明解国語辞典」、第八版)ではこうなっている。
(引用)
①難問に対処する方法が見出だせないで、どうしたものかと悩まずにはいられない様子だ。➁官能が刺激されて平静でいられない感じだ。(引用終わり)
新解さん、語釈の終わりが「、、、だ。」になっているところが面白い。さすがは読む辞書である。
★依存(いそん)
依存は「いそん」とも「いぞん」とも読める。
(本書引用)
NHKのアナウンサーはほぼ間違いなく「いそん」と言っていると思われる。というのはNHKでは「いそん」を第一の読みとしているからだ。(引用終わり)
漢字の読み方が複数あるっていうのはいくらでもあるだろう。それを一つ一つ確かめておかなければならないってアナウンサーさん、大変なことだなあ。
読み方に加えてアクセントの問題もある。あるラジオ番組でアナウンサーが「絆」を「き『ず』な」と「き」より「ず」を強調して読んだ。これに対してリスナーからクレームが入ってこれは「『き』ずな」であるとの指摘がなされたことがある。アナウンサーが調べた結果、「『き』ずな」が正しいとして謝罪していた。アナウンサーにクレームを付けようと思えば、読み方、言葉の言い回し、アクセントと無限にネタがありそうである。
ところで、今、新解さんを引いてみるとアクセントは「き『ず』な」となっていた。現在のNHKの手引書でどうなっているかは知らないが、アナウンサーが冷や汗をかいてリスナーに詫びるような問題ではなかったことは確かであろう。
それにつけても思うのはシャツインの問題である。子供の頃、私は上着の裾をズボンの中に入れないのが普通であった。別に平安貴族よろしくシャツアウトしていたつもりではない。単にズボンの中に入れるまでの手間が面倒くさかっただけなのだが。しかしこれが当時の大人の女たちから目の敵にされた。幼稚園の先生とか小学校の先生とかからは手招きされて「だらしない」と罵倒されながらズボンの中に上着を無理やり突っ込まれていたのである。
それが今ではどうであろう。シャツインはダサイというのが大多数である。あんなに大騒ぎすることなかったじゃないか。ああ腹が立つ。恨めしき女たちよ。
★うろ覚え
「うろ」は「おろ」が変化したものと言われる。そしてこの「おろ」。私が育った福岡県筑後地方ではよく使われる。
近所のおばちゃんが亭主に話しかけている。「猫が餌をおろ食べよる」。何のことかと言えば、飼猫のタマの元気がなくて餌の喰いが悪いということである。おろ = lessなのだ。
「おろいい」という言い方もある。漢字で書くことはないのだが、あえて書けば「おろ良い」である。「おろ」、便利な表現なので日本全国でもっと使われてよいと思う。
★徐に(おもむろに)
私の母親は癌で長期入院していた。あるとき、病床の母からいきなり、「おもむろにってどういう字を書く?」と聞かれた。母は読書家なので字を知らないはずはないと思いながらも、「徐々にの徐だよ」と答え、母親はうなずいた。
そしてこれが母親とまともに会話した最後になった。徐にっていう言葉が出てくるどういう文脈が母親の脳裏にあったのか。考えても分かるはずはないのだが、それでも年に何度か考える。母親が鬼籍に入って40年を過ぎた今も。
★薫る(かおる)
布施明が歌った「シクラメンのかほり」は大ヒットした。作詞は小椋佳。この歌は日本語に対する作詞家の責任という論議を巻き起こした。論点は2つある。
第一に「香り」を歴史的仮名遣いにすると「かほり」ではない。「かをり」である。確かに「かほり」のほうがやんわりした感じがでるが、それでいいのか。
第二に、「真綿色したシクラメンほど清(すが)しいものはない」という歌詞。これは清々(すがすが)しいでなければならないところ、メロディラインとの相性から清しいと短縮して日本語にない言葉を作ってしまったのである。
日本語を壊してまでもイメージ作りをすることが日本語のプロたる作詞家として認められる態度か。この手の論争の常として、結論は出ないままだった。
作詞家は必要に応じてなんでも作る。別の例として井上陽水作詞の「少年時代」もある。「夏が過ぎ 風あざみ」。風あざみという植物は存在しない。井上陽水は植物品種を作った。
★枯れ木も山の賑わい
(本書引用)
人から宴席などに誘われたとき、「枯れ木も山の賑わいと申します。ぜひおいでください」と言われたら、皆さんはどう感じるであろうか。
私なら、何と失礼な言い方をするのだと怒ってしまう。あるいは、そうか、この人はぼくのことをそう見ていたのか、どうせ自分はもう若くないからな、とすっかりいじけてしまうかもしれない。(引用終わり)
医者であった私の父親は患者さんの家族から言われたことがある。「どうか、よろしくお願いします。溺れる者は藁をも掴む、と言いますから。」
★舌の根の乾かぬうち
(本書引用)
「舌の根の乾かぬうちに」は、、、、「舌の先」だと思っている人もおりそれは誤りだとされているが、、、、絶対に「舌の根」でなければ間違いだという根拠はどこにもないのである。
なぜそのようなことが言えるのかというと、『日本国語大辞典(日国)』の用例を見る限り、「舌の根の乾かぬうちに」はそれほど古い言い方ではないからである。その用例は、明治時代になってからの歌舞伎のものが現時点では初出である(『日国』では補注で「人情本・清談若緑」に見える「その舌の根もひかぬ(=乾かない)うち」という用例も紹介しているが、これは19世紀中頃、つまり幕末の用例である)。
ところが、同じ意味の言い方に「舌も乾かぬ所」という言い方もあり、こちらの方は、もっと古い1766年刊行の浮世草子『諸道聴耳世間猿』(上田秋成作)の用例が存在するのである(引用終わり)
たった一つの言葉へのここまでの執着。おわかりいただけただろうか。我々がこぞって辞書編纂者を第一等の変態であるとして絶賛称揚するわけが。
★心頭(しんとう)
昨晩、テレビ番組で「マツコ有吉怒り新党スペシャル」を観た。トリオで進行していたこの番組のうちの2人である有吉と夏目三久が結婚して夏目三久が引退する記念番組だった。
夏目三久、イイ女だと思う。そしてそういうイイ女にアナウンサーという職を投げうたせる有吉弘行はさらによい。
私、ごくごくごくたまにであるが、配偶者のことを良いとして褒められることがある。そういうとき、私はこう答えるのだ。「そういう女を田んぼの泥の中から浚ってきて妻に据えたのは私なのだから、素晴らしいのはこの私です。」
★頭蓋骨
頭蓋骨は普通には「ずがいこつ」である。しかし、解剖学的には「とうがいこつ」と言う。
解剖医が登場するテレビ番組でも、「とうがいこつ」と言っている。しかし、テレビの「とうがいこつ」に私は違和感を抱くのだ。それは役者さんの「とうがいこつ」の言い方にある。
いかにも「台本の『ずがいこつ』が読めなくて『とうがいこつ』って言ってるんじゃないんですよ。これが正しいからこう言っているんです」と言わんばかりに慣れぬ言葉に無用な意識を込めているようなセリフ回し。プロの解剖医なら一切そういう意識なく何事もなく言うはずだと思う。そこが変。
★全然
私が中学生だったとき、「全然」は否定形で受けなければならない語ではないと知って大ショックを受けたことがある。「全然おもしろくない」とかいうふうに全然のあとは否定形しかないと決め込んでいたからだ。「全然大丈夫」でも問題ないというのは、国語のプロが言うのだからそうかもしれないとは思いながら日頃使っている語感から、素直には納得しがたかった。
本書にも同じく、全然のあとが否定形でないのはおかしいという指摘を受けた話が載っている。変わらんなあ、と思う。
以下、読者から編集部にクレーム電話がかかってきたらこうなるんじゃないかという勝手な想像。
(想像はじめ)
読者「あのな、お前んとこが出してる「ジェーン」っちゅう雑誌の記事の中の文に『全然大丈夫』ってあったけど、お前らは日本人か? 日本人ならちゃんと日本語やれ。全然のあとは否定にきまってるだろうが。どんな校正しとるんや。」
編集者「当社の雑誌を熱心にお読みいただきありがとうございます。また、今回、このような貴重なご意見をお寄せいただきありがとうございます。まず、そのことにお礼申し上げます。」
読者「そういうのはいいから。間違ってるってゆうとるやろ。」
編集者「『全然大丈夫』の件でございますね。」
読者「だから、そう言ってるだろうが、いらいらさせんなよ。」
編集者「『全然』の本来の意味は、残るところなくすべて、という意味でありまして、あとが否定でも肯定でも構わないことになっております。」
読者「嘘つけ、みんな全然のあとは否定をつけてるぞ。ワシ、62なんだが、62歳になるまで、全然のあとを否定にしなかった人に会ったことないわい。あ、ワシ、本も好きでなあ、月に2,3冊は読むかなあ。近くのコンビニでな。」
編集者「知的で日本語にも通じていらっしゃると。ですが、申し上げましたように、『全然』のあとは否定でも肯定でもよいということになっておりますので、、、」
読者「ワシがモノを知らんとでも言いたげじゃないか。ほんま、ワシの周囲はみんなそうやで。なんなら証人を何人か連れてそこに行こうか。当然、新幹線代はそっち持ちやけど。」
編集者「そんなことは。あの、証拠でしたらですね、いろんな本に書いてあると思いますが、例えば、神永暁さんの書かれた『悩ましい国語辞典』という本もございまして、これをお読みになっていただければ、お分かりいただけることと存じます。」
読者「なんや、ワシに手間暇かけさせようっちゅうんかい。」
編集者「いえいえ、それでご納得いただければと思った次第です。せっかくありがたいお電話を頂戴しております。電話代もタダではありませんので、どうでしょう、よろしければですが、「日向坂46」の佐々木久美が当社を訪問した折に書いていったサイン色紙、お送りさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。」
読者「日向坂だあ? ワシ62やぞ。このトシで日向坂キャプテンのささくの色紙とかもらって喜ぶと思うか? 聞いたこともないアイドルグループやし。でも、そっちの言い分も分かった。そっちの誠意を無碍にもできんからな。色紙はもろうとういてやる。」
編集者「ありがとうございます。」(想像終わり)
★大丈夫
最近、「大丈夫」は「必要ない」という意味で使われることが少なくない。私が始めてこの用法を知ったのはテレビ番組だった。
AKB48の高城亜樹が街ロケをしていて、何かの商品を買いませんかと勧誘を受けた。そのとき彼女が言ったのが「大丈夫です。」だったのだ。
アイドルは役に立つ。
★他山の石
2021年、自民党の二階俊博幹事長の「他山の石」発言が物議を醸した。
自民党員の元法務大臣が公職選挙法違反の罪に問われた事件について「党としても、他山の石として、しっかり対応していかなければ」と述べたことに批判の声が湧き上がったのだ。「自分の党の話なのに、他山とかいう他人事のように評するのは何事か。」というわけである。論調はほぼこの他人事非難で塗り尽くされていた。
しかし、である、新解さんには他山の石の意味としてこうある。「たいして役に立ちそうでないと見えても生かし方次第で役立つもの」。問題にするのなら元法相の法律違反事件が「たいして役に立ちそうでないと見える」ということのほうが、大きいんじゃないだろうか。
もっとも、二階幹事長、そんなに深く考えて「他山の石」という言葉を使ったわけではないようである。後日、記者から「いまも他山の石とお考えか」と問われてこう答えている。「それは表現じゃないですか、それぐらいの表現は許されてしかるべきだ。」
★人間
1979年から2011年まで、TBSでドラマ「3年B組金八先生」が放映された。武田鉄矢演じる金八先生は国語教師で、人の生き方を黒板に書き示した漢字を使って説いていた。その1つが「人という字は互いに支え合ってヒトとなる」であり、これは名言として広まった。
2020年9月、武田鉄矢は「徹子の部屋」に出演し、告白したのだった。「漢字を研究されている専門家の本を読みますと『人という字は支え合っておりません』って書いてあるんです。実はこれは人を真横から見たところなんです」。
★☓(バツ)
私が鳥取県の小学校に通っていたとき、☓は「しめ」と読まれていた。問題への答えが正しければ「まる」間違えれば「しめ」であった。
九州の小学校に通っていたとき、☓は「かけ」であった。
鳥取県時代、テレビで桂小金治司会の「オリンピックショウ 地上最大のクイズ」という番組があった。番組中、小金治は何度となく回答者に向かって言うのである。「それでは、マルかバツかでお答えください。」
この「バツ」がどうしても馴染めなかったなあ。なぜシメと言わない、っていう軽い怒りもあったような気がする。
★雰囲気(ふんいき)
新解さんによれば「雰囲気」の意味は「その場所(に居る人たち)が自然に作り出している特定の傾向を持つ気分」となっている。そして意味としてはこれだけしか書かれていない。これはきわめて重要な意味が欠落していると思う。それは、(物理的な)周囲の空気という意味である。「雰囲気」という字からしてこちらが本義じゃなかろうか。そういう用法がなされるのは科学技術においてである。
例えばこう使われる。
発泡粒子を室温雰囲気下で24時間放置した。
アーク電圧は雰囲気圧力の上昇に伴い上昇した。
雰囲気温度は摂氏140度。
こういう意味、用例が国語辞典から抜け落ちているのは大欠陥だろう。本書でもこの欠落に対する指摘がなされていないので、ぜひ書いてもらいたい。
★物差し(ものさし)
物差し、定規である。千葉県出身の私の配偶者は「線引き」と呼ぶ。配偶者が関係している組織が発行している小冊子に題名が「せんひき」というものがあった。この名前は親しまれているのであろう。
ところで、この線引き、それにコンパス。私は毎日手にしている。何に使っているかと言えば、中学入試の算数図形問題を解くのに使っているのだ。私自身は当然のこととしても、身近にも中学受験生がいるわけではない。パズルとして面白くてたまらないのである。
中学入試ということは小学生に出す問題なわけだが、これがとても難しい。私にはすぐには解けない問題ばかりだ。中学生以上を対象とする数学じゃなくて小学生を対象とする算数だっていうことがミソである。つまり、三角形の面積や角度の問題でも、三平方の定理とか、円周角の定理とか、平方根とか、方程式とか、サインコサインなどの三角比とかは一切使えないのだ。使えるのはひらめきとアイディアのみ。いやあ小学生って頭いいんだね。
振り返ってみると私も小学生のときが一番頭がよかった気がする。小学生と大人の違いは知識と経験の量だけのように思え、その分だけ馬鹿になってるかもしれん。頭の良さ+知識量+経験値 = 一定という式が成立するんじゃなかろうかとさえ感じられる。
さて、例題を出してみる。皆さんも是非、解いてみていただきたい。数学は一切使わないで、算数で。
(問題)正方形があり、その正方形と1辺の長さが等しい正三角形が正方形の左右に図のようにつながっている。この図の左端から右端までの長さが10センチであるとき、この図形の面積はいくらか?
この問題は有名な問題なので、ネットで探せば正解が見つかる。
★やばい
TBSの「モニタリング」という番組で、自分がファンである芸能人が不意に目の前に現れたとき、女の子たちはまず例外なく「やばい」と言う。本来の意味から変わってそういう使い方が広まっているのだ。
マイケル・ジャクソンの”BAD”を日本語に訳するとすると、「ヤバい」以外にはあり得ないだろう。
★0(レイ・ゼロ)
降水確率でレイパーセントと言われれば、雨が降る確率が限りなく低いということで、つまり雨が降るかもしれない。ゼロパーセントと言われたら、雨が降ることはない。
先の大戦中、英語は敵性語として使用が禁止された。しかし概念や名前を示す語をなくすわけには行かないので日本語への置き換えが行われた。
ゴルフ→芝球、(野球)ストライク→よし、(企業名)欧文社→旺文社、キャラメル→軍粮精、マッチ→当て擦り、(鉛筆)HB→中庸、ピアノ→洋琴、などなど。
私、長年不思議なことがある。それは戦闘機零戦のことである。「れいせん」と呼ぶこともあるらしいが圧倒的に「ぜろせん」である。なぜ軍用機に敵性語を使うことが認められたんだろう。
★あとがきに書いてあった。19世紀イギリスでは辞書編纂が刑罰としての労働だったことがある。しかもかなり重い刑罰だったという。どういう作業だったのかな。
辞書づくりについてこういう記述があった。
(本書引用)存在量が極めて豊富で希少性をもたず、売買の対象とならない財をいう「自由財」としてのことばを、経済価値を有する財またはサービスをいう「経済財」、すなわち、売るための商品としての辞書に作り替えるものである。」(引用お終わり)
まあ、これは辞書編纂人の恥じらい心というものだろう。1つの辞書を作るのにどれだけの時間や手間がかかるものか、そして辞書1文字がいったい何円になるのか、あまりの安さに経済性の対象ではないであろう。
辞書を世に出してくれる人たち、ありがとう。
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