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たのしい写真 よい子のための写真教室  ホンマタカシ 平凡社


 私が子供のとき、家に一人のセールスマンがやってきた。新しく発売になる小学館の「原色 日本の美術」という順次刊行全集の売り込みである。

 とにかく巨大な本だった。新聞1ページを2回り小さくしたくらいの大きさ。セールスマンが抱えていたのは仏像の巻。大きな本なので当然写真も大きく、これまで見たこともない鮮明さで阿弥陀如来や月光菩薩や不空羂索観音たちがページをめくるたびにこれでもかと迫ってきた。我が家では仏像に気圧されてこの全集を購入したのだった。

 セールスマンはこういう説明もした。「写真を良く見てください。仏像のここは実に精細にピントが合っていますが、ほんの数センチ離れたここはもう少しボケているでしょう。これはいかに高級なカメラを使っているかの証明なんです。」

 とても衝撃だった。そうか、高級なものって、ちょっとずれるともうピントがぼけてしまうのか。そういう繊細さこそが高級の証なのか。セールスマンの一言は少年のものの見方に多大な影響を与えたのだった。

 さて、この少年、つまり私は、高校の部活では写真部に入った。もちろん、デジカメはまだなかった時代である。オート機能などなくカメラはすべてを手動で操作するものだった。私はカメラそのものが好きで、高度な精密さを持つ機械を弄り回したかったのだ。鏡を使ったトリック写真みたいなのとか、理科部から借りた顕微鏡を使った写真とかを撮影して喜んでいた。

 何度か書いたが私には絵心がかなり不足している。だからアートとしての写真は大したものは撮影できなかった。そんな私でも周囲の写真部員たちが絶対的に信頼を寄せ、「あいつの××は間違いない」って口をそろえて言うものがあった。

 それは、ピントである。

 今や銀塩カメラ(フィルムカメラ)は絶滅危惧種だ。それでも「やっぱり銀塩写真じゃなきゃ出せない味わいがある」というこだわりを捨てきれない人は存在する。あるいは、銀塩カメラなんてろくに使ったこともないデジタル時代の若者が、被写体や状況によっては銀塩を好んだりする。

 息子は2台の銀塩カメラを持っている。冒頭の写真に本と並んで写っているのがそれらである。1台はオークションで買ったロシア製ゼニット。もう1台は親戚からもらったペンタックス。

 次に読むのはこの本、と息子が差し出したのがホンマタカシの「たのしい写真」。副題は「よい子のための写真教室」。よい子かあ、なつかしいなあ。私の小学生時代には副教材に「よい子の、、、」という名前が付けられたものがいくらでもあったなあ。

 ホスト界の帝王、ROLANDは言った。「世の中には2種類の人間しかいない。俺か、俺以外か。」
 映画「スイングガールズ」で、ある若者は言った。「すべての人間は2種類に分けられる。スイングするやつとスイングしないやつだ。」
 写真界では言う。「カメラには、ライカとライカじゃないカメラがある。」

 泣く子も黙るライカのI型が発売されたのは1925年。言ってみれば固定黒電話しかなかった世の中に携帯電話が登場したようなものだろう。ライカの登場で「決定的瞬間」の撮影が広く可能になった。写真機というものが発明されたころの被写体は何十分とか何時間とか静止していないと画像がぶれてしまった。「写真を撮られると魂が抜かれる」って、あれ、単なる静止疲れじゃなかったのかなあ。

 「決定的瞬間」が流行しはじめると、すべての物事がそうであるように、反決定的瞬間のムーブメントが起きる。「価値は瞬間の中にしかないのか。そうではあるまい。持続する時間の中で世界はすべて等価だ」と言う考え方である。そして、あえて大型カメラでシャッタースピードが遅い写真を撮影し始めたのだ。シャッタースピードが遅いとそれだけ絞りを絞ることができるので、焦点深度が深くなる。つまり、ピントが合う前後の範囲が広まる。手前にあるカップも奥にあるカップも、価値は同じということだ。

 さらに時代が下ると、撮影後のコンピューター処理もよく行われるようになった。「写真」という名前ではあるが、はたしてこれは真実が写し撮られているのか、生身の自分に見えている姿はこうなのだ、という主張である。

 ホンマタカシのこの本は、タイトルに偽りなしの「教室」である。ワークショップがあってその課題が素晴らしい。

課題1: あなたが好きな写真集の中から1枚の写真を選んで、それがどのように成立しているかを言葉で説明し、次いでその1枚と同じ構造の写真を撮影して下さい。

 ワークショップ参加者の美大2年生の女の子が持ってきたのはアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集。その写真がどのように成立しているかについての彼女の説明は、こうだ。

 「パリの本当の姿を理解して撮っている。」

 いかにも20歳ごろの女の子が言いそうなことである。学生仲間だけだったらこれで共感されたりするのだろう。しかしホンマタカシは容赦しない。「うーん、どうしてパリの本当の姿を理解しているなんてわかるのかな? そもそも『パリの本当の』って?」

 こう問い詰められた女学生は返答できなかった。まずは自分の頭でっかち、根拠のない観念性を認識するところから始まるワークショップだね。

課題2:<写真は真実だけではない>ということを意識するために、最初からウソを取り込んだ写真を撮ってみよう。

 なんでこんなことをさせるのかっていうことについてホンマは説明する。

 「『My Daughter』と題され、写真家本人とおぼしき人物が女の子と一緒に写っていれば読者は当然「まあ、可愛い娘さん?」と思うでしょう。何の疑いもなしに。でも、もしその女の子が写真家の子供でなかったら? 読者はガッカリするでしょうか。急にその写真がつまらなくなるでしょうか。ウソだとしても変わらず魅力的な写真というのはありえないのでしょうか。」

 嘘が引き起こすリアリティの問題である。私は高校の文化祭に「夕陽の中を飛ぶカササギ」と題した写真を出したことがある。私が住んでいた福岡県南部から佐賀県にかけてはカササギの数少ない生息地だ。この写真は好評だった。しかしこの写真は嘘なのだ。夕陽の写真を撮影したことがある人なら誰でも経験があるだろうけど、あんなに大きく見えていた太陽が、写真にすると実に小さい。その中にカササギを入れるなんて不可能だ。よって太陽を大きくした拡大した写真の中に3羽のカササギを合成配置したのだ。でも、「よく撮れている」っていう感想が大半だった。カササギが飛ぶ空の価値もそれなり感じてもらえたようである。これはつまらない写真ではなかったと思う。見た人が、薄々、なんか怪しいと思っていたとしても。

課題3:写真のたのしさは自由なところ – ですが、あえて撮影に制約を設けて、不自由な状態で撮影してみてください。

 自分は一切動かず被写体が来るのを待つのだから蟻地獄方式と言えようか。走っている自動車の窓から写真を撮るというのもこの一種である。ほかにも露出を固定する、ピントを固定するなど。

 何をどう撮るかという主体性を一切放棄してさらに放棄してゆくと、そこに残るのは何か、っていうことだろう。主体性がなくったって写真は撮れる。主体性、つまり自我意識のないすべてあなたまかせの写真に感動はないのかっていうとそういうことはまったくないのである。

 ところで、日本の写真家と言えば天才アラーキーの存在がある。この本でもアラーキーがひょこひょこ顔を出してくる。

 アラーキー。電撃ネットワークの南部虎弾そっくりの風貌および雰囲気。アラーキーは何でも撮る。雨に濡れた街の舗道、旅行風景、緊縛された女、自分とコトを終えたばかりでエクスタシーが顔に張り付いたままの妻、陽子。

 アラーキーのまさしく破竹の進撃を目の当たりにした他の写真家がこう言っていたのを聞いたことがある。「あんな売り方してたら、すぐに潰れる」。しかし潰れなかったね。

 私が好きなアラーキーの言葉。「天才は成長しないよ。最初から完成されてるから」。

 昔の写真部員は撮影したフィルムを自分で現像した上で引き伸ばし、焼き付けまでやったものだ。写真部の暗室にこもって。フィルムを現像するときは真っ暗闇の中で。モノクロなら印画紙を現像するときに感光しないほの暗い赤い電球を1個付けて。

 私は自分の家にも暗室をしつらえていた。風呂の脱衣場に黒いカーテンを張り巡らした時間限定の仮設暗室である。高校の同級生で、モデルをやってもらっていた女の子が、「どうしても、暗室で現像しているところを見たい」と我が家にやってきたことがあった。まっ暗な中なので見たいもなにも見るものは無いのにね。現像が進みすぎないように停止させる液(酢酸)のような想い出。

 最後に、とても気に入った言葉がある。「あらゆる真実のウラには真実がまったくないのさ」。


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