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須弥山から解説する アカシックレコードと人間の運命

帝釈天がカギを握る現象界


今回は仏教でいう〈須弥山〉について解説してみたいと思います。
この須弥山という言葉は、仏陀が亡くなられて、5世紀、ヴァスバンドゥ(世親)と言う人の、「倶舎論 くしゃろん」その中に「世品」という一説があります。

その中で、天上界の構成について述べられた文献がもとになっています。

これはが天上界を表していて、下の方に、風輪、水輪、金輪というのがあり、水輪と金輪の境目を〈金輪際〉と言います。その上に、須弥山があります。

須弥山の塔の高さは8万由旬あります。1由旬が現代の我々が使っている言葉にすると約7キロメートルですので、8万由旬は、約56万7キロメートルの高さとなります。

風輪、水輪、金輪の上に、塔が建っていて、ここには〈忉利天〉という33の天人が住んでいると言われ、さらにその上に帝釈天が住んでいます。

帝釈天の住む上の世界はどのようなことを司っているのでしょうか。
天上界には〈無色界、色界、欲界〉があります。

無色界というのは色ではない世界、つまり考えたことが実現しなくても興味がない、善とか真理、そのようなことに興味がある世界です。

色界というのは、心がこの世的なものに向いています。ただ実際に手を出すわけではありません。例えばカレーライスが食べたいときに実際に食べようとするのは欲界。でも既に食べたと想像して満足する、これが色界です。

その下にある欲界は、さらに細かく分かれていて、他化自在天、化楽天、兜率天、夜摩天、忉利天とあって、忉利天の主人公が帝釈天です。

帝釈天は欲界をコントロールしています。欲界をコントロールしているということは、この世における〈現象界〉をコントロールしているということです。

この現象の中には〈人間の運命〉も含まれます。人間の運命の成り立ちも、考えてみれば非常に神秘的です。


生まれるときに拡散する魂のカケラ


人間の魂が肉体に宿るときに、その人の魂の中には、前世や霊的な世界で学んだ〈記憶、感情〉が粒子のように溜まっています。

その魂が、この世に生まれてくると同時に、世界中に〈魂のカケラ〉として拡散し、飛び散っていきます。

人がこの世に生まれると、自分のカケラと思われるものが多く集まっている職業につきたがる、自分のカケラがたくさん吸収できそうな場所に住居を定めたがる。

つまり自分探しというのは、もともと自分の中にあったものが生まれると同時に、世界中に拡散していったカケラを拾い集める作業であると考えることができます。

そうすると、自分がもともと持っていたものを、どこに散らすかを決めるのが須弥山の頂上です。

さらに、世界で起きる諸々の出来事が折り重なり、様々な運命が、世界で形成されていきます。

自分が持っているカケラをどの方面に散らすかというと、例えば愛情面については、こういう人と愛しあいたいと思ったら、その相手に魂の小石をめがけて投げる。仕事面だと、こういう仕事に就きたいと思ってその方向に投げる。

そのように様々なジャンルに向かって魂のカケラを投げます。愛情面の方向に向かって投げたカケラが比較的近くにあれば、人生の初期の段階で愛する人と巡り会います。

しかし、今世は仕事の能力を増やそうとすれば、その人は魂のカケラを仕事の領域においては遥か遠くに投げるかもしれません。そうするとその人は人生の初期では、なかなか適職に巡りあわないなど、自分とフィットしない仕事に就いたりします。

ですから仕事においては、人生の初期の段階では苦労し、しかし愛情面は恵まれたります。


魂からみたら幸福も不幸もない


このような構図で、人は遠くに飛んだカケラがあると、途中までは自分に向いていない職業と出会いますから、ある意味その人は愛情には恵まれても仕事面では不幸だという言い方をします。

実は不幸なのではなくて、もっと自分の魂を拡大させたいために、遠くに投げたにすぎません。

ですから遠く旅をしなければ得られない状況を人は不幸と呼びます。割と近くにある自分の魂のカケラを見つけたら、人はそれを幸福と呼びます。

時間がかかり努力を要するが、人生の後期で幸福になるものを不幸と呼ぶ。
時間がかからずあまり努力を要さずに人生の初期で手に入るものを幸福と呼ぶ。

幸福や不幸というのは、人間の都合によって考えたにすぎず、魂の見地から捉えると、幸福も不幸もありません。


アカシックレコードは記録だけでなく未来も創る


話を戻しますが、須弥山の頂上において帝釈天と相談しながら、自分の魂のカケラをどこへ、どれだけの距離を投げたらいいかを決めて、さらに世界で起きる諸々の事象も組み込まれて、

頂上に広がる、人類の〈アカシックレコード〉を参考にして、定められた人生の青写真(ブループリント)が決められます。
ですから須弥山の頂上は、人生の青写真と世界の青写真が決まる場所であると言えるでしょう。

これが仏教的な見方から見たときの須弥山の位置づけです。

ところで須弥山という言葉ですが、これはスメールと言って、シュメール文明と関係があるのではないかと思われますが、この〈ス〉と言うのは、〈善なる〉という意味です。

もし宇宙に意識があり、それを創造神と名付けるとすると、運命を決めるこの場所においては、良くなって欲しいという意識で運命が創られていることが、名前からみてもわかります。

ですから人生はぜったいに悲観してはいけません。色々な出来事が起きたとしても必ず幸福になるようにできています。

つまりアカシックレコードのようなものが創られるのであろうということです。いま創られるという言い方をしましたが、アカシックレコードがどのような捉え方をされているかと言うと、

〈過去〉時には〈未来〉に起きる出来事が、
〈記録〉または〈記憶〉されていると、捉えてられています。

しかし、アカシックレコードは記録されるという側面だけではなくて、
未来の青写真(ブループリント)を創るという創造的な側面もあります。

この側面がなければ、人間の運命というのはすでに決まっているという悲観的な見方になりますが、新たに創るということができるという、創造的な見方が必要です。


地球と太陽と須弥山の位置関係


そのように須弥山の頂上では、世界と自分の運命が決められていくということになります。

さて、1由旬を約7キロメートルと換算したときに、果たしてこの須弥山と言われる場所は、太陽系のどこに存在するのか?と途方も無いことを考えてみました。

現代の長さに訳してみると、瞻部洲、または閻浮提と言いますが、瞻部洲についての倶舎論の記述をみると、直径が1,4万キロメートルと書いてあります。

ところで地球の直径は1,3万キロメートルと、非常に近いものがあります。
したがってこの瞻部洲というのは地球自身をあらわしていると考えます。

地球からどのくらいの距離に須弥山が存在するのか?

横の長さを計算すると、286.825万キロメートル。高さが56万キロメートル。瞻部洲、地球からの距離というのは約292万キロメートルとなります。

この仏典の記述が正しいと想定すると、地球から約292万キロメートルのところに須弥山が存在するのではないかと考えます。

天文学的にリサーチしてみると地球の周りには磁気圏というのがあり、磁気というバリアで保護された領域があります。この磁気圏を観察しますと、勾玉のようになっていて太陽風の影響で太陽と反対側の方向に尾ひれが伸びています。

磁気圏の前方が6万キロメートル、後ろは約200万キロメートルまで尾が広がっています。ご覧いただくと〈292万キロメートル〉と〈200万キロメートル〉の数値が近いことがわかります。

ここから想定すると、おそらく須弥山がある場所は磁気圏の尾ひれの先端部分を指すのではないでしょうか。

磁気圏というのはもちろん磁気を帯びています。そしてフロッピーディスクとかCDとかDVDなどは磁気の力で音声や映像を記録しています。つまり磁気というのは情報を記録することができると考えると、

磁気圏そのものがアカシックレコードの重要な部分を形成していて、その尾ひれの部分に須弥山があり、そこに帝釈天が存在すると考えると、

磁気圏の尾ひれの部分で人間の運勢・運命が決められるような出来事
スピリチュアル的な活動が行われているのではないかと考えられます。

私たちは普段は太陽を見ていて、夜になると月を見ています。
月を見て、心が安らぐような状態というのは月そのものというよりもその後ろにある、須弥山というか帝釈天を意識するから心が安らぐのではないでしょうか。

このような観点で見てみると、満月の日に手を合わせて、自他の幸福を祈るというのは、根本から人間の運命を変える可能性があります。
ですから満月の祈りというのは天文学的に言って効果的なのではないでしょうか。

月の遥か向こう側に須弥山があるわけですから、古来から人が中秋の名月とか満月を見て心が安らぐのは、その遥か奥の方に人間の運勢を変えるエネルギー体があるからです。人間はそれを無意識に感じ取っていたのではないでしょうか。

さて須弥山には、風輪、水輪、金輪というのがありますが、須弥山の頂上が地球の周りにある磁気圏の尾ひれだと考えると、須弥山の図を横にして、勾玉の図のところへ持ってくると、須弥山の位置関係が見えてきます。


金星から水星へ行ったら戻れないのが金輪際


つまり須弥山は瞻部洲のところに地球が存在します。とすると、水輪、金輪というのは何を意味するかというと面白いことに、水星、金星の位置となります。

金輪は金星が醸し出す波動
水輪は水星が醸し出す波動

と考えると名称的には辻褄が合います。

この2つの惑星は、アカシックレコードで決定された出来事を次々と実行していく星なのだと思われます。

つまり尾ひれの部分の情報が先端に伝わっていき、最終的に意思決定される。意思決定されたらもう変えようがありません。

その状態のときに、情報が金星を超えて水星に行ったときに金輪際という言葉が使われています。もはや変えようがない状態になったときに〈金輪際〉と言いかたをします。

さらに言うと、須弥山の上の方に〈兜率天〉というのがあります。
実は来世の仏である弥勒菩薩は兜率天に住んでいると言われていますが

つまり勾玉の尾ひれの、さらに100キロあたりまで行ったところ、仏教の記述が正しいとすれば、弥勒菩薩はこのあたりにいることになります。

いずれにしましても、救いは満月の方向にあることになります。そして太陽を見たときは、運命が決まっている。

ですから尾ひれの方で、諸々の情報が、追加修正が加えられて先端の方に送られていくともはや変えようのない状態になっていく。

この勾玉を人間のからだに想定して、眉間の位置を太陽として想定すると、諸々の決定されることが後頭部にあり、そこで決定されたことがどんどん前に送られてくると、表面意識に上っていって意思決定されて行為に移る。
意思決定されたことはもはや変えようがない。

このように須弥山の構図からみて見ますと、惑星に意識を合わせるということは人間の意識を変えることになります。

2019年11月 Dr.Shu

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