HEY BROTHER
尾澤と山田という2人の盟友がいる。
彼らは私の中高の同級生であり、
中学野球部の同輩でもあり、
高校では野球部を引退してから私がキャプテンを務めていたアメフト部に助っ人として途中入部してくれた。
私の一生の友人達である。
尾澤
尾澤の上背は私と同じくらいの170cm弱、体格は筋肉質でガッチリとしている。
私にも負けないほど怠惰な奴で、様々なことに挑戦しようとして尽く挫折する。
つい最近も新たなことに挑戦しようとしていた。
弟と共にフィジーク(ボディビルのパンツ一丁じゃない版)の大会に出る約束をしたらしい。高級寿司をかけて対決して、必ず勝つんだと居酒屋で息巻いていた。
しかしたまたま近くの席で飲んでいたオフシーズンのフィジーク選手に
「このタイミングで酒を飲んでいるのは終わっている。」と一喝され、そこからは伏し目がちになり声が小さくなっていた。
「俺はやるんだ」と妄想とも言える理想を掲げ、その絵を見て高揚するだけで細かい計画は立てない。
そして現実と言う名の努力不足が明らかになると足がすくんでそのまま諦めてしまう。
そんな男だ。
私と良く似ている。
このままだと友人をこき下ろしているだけの様だが、彼はやるときはやる男なのだ。
全部が全部尻切れトンボと言うわけではなく、自分が本当にハマったものに対しては寝食を忘れてとことんやり込む。
尾澤は中学の頃から英語が好きだった。
そして大学は国際色の強い学校へ行き、4年が経った頃にはネイティブの様にペラペラになっていた。
その英語力を生かし、たまたまBARで出会った、後の上司となる男の誘いで外資系の企業へ就職し、約2年の海外勤務の後退職して日本へ帰ってきた。退職の理由は「酒を飲み過ぎてこのままだと1年以内には死ぬと思った。」と言うものだった。彼の勤務していた国でのその業種は、文化的に飲み会が頻繁に行われるらしく、そこで消費される酒量も日本とは比べものにならなかったと言う。
ビジネスパートナーや同僚が立て続けに内臓の疾患で倒れ出したのを見て退職を決めたようだ。
そして私と同じく北海道という土地で生まれ育った彼は北海道を愛していた。帰国後、尾澤は北海道の人口8000人そこそこの、土地の余りまくった町に引っ越し、馬鹿でかい一軒家に一人暮らしをはじめた。
そこで持ち前の英語力を生かし、フリーランスで通訳や翻訳の仕事をしながら稼いでいるというから大したものだ。実際に自分が好きなことで、自分の好きな場所で生活をしている。これは彼が「やるときはやる。」からこそ成し得ているのだろう。
尾澤の努力
彼の努力の方法には妙なこだわりがある。
今から5年ほど前、尾澤は一人の女性に恋をしていた。
その女性は彼の小学校の同級生で、同窓会で久しぶりに会ったらしい。
小学生の頃に彼女に抱いていた印象は、気が強くて男勝りのトゲトゲした女子というものだった。
時間が経って同窓会の席で再会した彼女は、どこかおしとやかであたたかみのある女性だった。幼い頃とのギャップと、その時の彼女の微笑みにときめいた尾澤は同窓会が終わってからも彼女と連絡を取り続けた。
当時尾澤は九州の大学に通っており、彼女は北海道に住んでいたため直接会うのが難しかった。しかし同窓会の2ヶ月後、尾澤が北海道に帰省したタイミングで、二人きりで飲むという激アツイベントが発生した。
気持ちが芽生えてから初めての飲み会にボルテージが上がり切っていた尾澤だったが、結果はあまりよくなかった。
緊張していたせいか、居酒屋で飲み始めても会話が中々盛り上がらない。その空気に耐えかねた彼女は、5分も経たずに別の友人を呼んでしまったのである。飲み会自体はそれなりに楽しく終わったのだが、彼女との距離が縮まった気はしなかった。
反省した尾澤は、何が良くなかったのかを考えた。考えて考えて、いよいよ彼は答えを導き出した。
「筋肉が足りない。」
もともと筋トレをしていた尾澤だったが、この時期は学業の忙しさにかまけてあまりジムに行けていなかった。余計な贅肉も増え、ベストの体型を維持できていなかった。次彼女に会える時までに、自分を最高の状態に仕上げようと決意した。
そこから尾澤のハードな毎日がスタートした。ほぼ毎日ジムに通い、食事管理も徹底した。
彼女の名前が「七」にまつわるものだった為、何をするにでも縁起を担いだ。
ジムでバーベルを上げる回数も7回。もしも8回以上あげられる時は、「7+1、7+2・・・」と数えた。毎朝のランニング時に寄った神社でもお賽銭は7円。49(7×7)歩歩いて49(7×7)歩全力で走るというのを7回繰り返すというキショいトレーニング方法をも編み出した。学生から社会人になるタイミングだった為、その時に作ったクレジットカードの暗証番号にはもちろん7を入れた。
流れる日々の間に彼女は就職し、住まいを関東に移していた。そして尾澤は入れ違いの様に北海道に戻っていた。
約半年その努力を続けていた頃、遂に彼女と再会する機会が訪れた。
就職したてでバタバタしていた彼女だったが、徐々に仕事に慣れはじめ、生活にも余裕が生まれてきていた。そして尾澤は海外へ赴任する前に最後に東京へ行きたいということで、私の家へ泊まりに来ることになっていた。
こんなチャンスはないと尾澤が彼女に連絡をしたところ、「いけるよー。」と返信が来たのだった。
三日後に悲願の再会を控えた尾澤は、私の家に滞在していた。彼は酒も飲まずにずっとブルーベリーを食べていた。どこで調べたのかは知らないが、フルーツを摂取し続けると体臭もフルーティになるんだと語っていた。彼女との再会が決まった約1ヶ月前から始めているらしい。
そしてそのブルーベリーは全部セブンイレブンで買っているんだと言っていた。それを聞いた私は「必死なんだな。」という感想以外抱かなかった。
そして約束の日。
尾澤は昼過ぎに家を出て行った。別の予定があった私は途中まで同行する様なことはせず、ただ彼の後ろ姿を見守っていた。
その背中は緊張感を漂わせながらも自信に満ち溢れており、まさに三年間の努力の末に勝ち取った決勝の舞台へ向かうオリンピック選手の様だった。
半年前、80kgあった男は鬼のトレーニングによって今や67Kgのアスリートの様な身体になっていた。フルーティな香りを風に纏わせ歩む彼に、どうかこの努力が実りますようにと祈った。
結果、彼は大宮駅のスタバで5時間待った挙句彼女は来なかった。
約束の時間になっても返信が来なかったが、彼女を信じていた尾澤はひたすら待っていた。折しも23時30分、初めての返信がきた。
「もう家着いたわ。」
彼はそれを見て、フルーティなため息を吐いたのだった。
糖質制限を行っていた彼は、その翌日焼きおにぎりで米を食っていた。
そして未だにクレジットカードの暗証番号を打つたびにその子のことを思い出すという。
周りから変人と思われようが気にも留めない。やりたいことに貪欲で計画も立てずに何でも行動する。そんな男だ。そして酒癖が悪い。
山田
対して山田は真面目な人間だ。
大概の提出物の期限を守らない尾澤と私と比べて、彼は夏休みの宿題なども早めに終わらすタイプだ。私に至ってはやらない。
彼は未来の自分のために今の時間を費やすことができる。自分の目標のために着実に努力をし、尾澤の様に衝動的に突拍子もない行動をすることもない。学力試験でも教科満遍なく上位をキープし、授業中に騒いだり寝たりすることも少ないため内申点も高かった。
優秀な彼は、私にはよくわからない金融系の仕事をしており、若いのにもかかわらず大きな仕事を任されて世界中を飛び回っている。初めての海外出張で行ったアメリカとヨーロッパから帰ってきたときの感想は、「水分補給のタイミングが難しくて辛かった。」だった。我々にはわからないあるあるだ。
また、出張帰りにはかかさずお土産を買ってきてくれるマメで優しい性格でもある。
しかも肉体的にも優れており、筋肉質のしまった体は古代ローマの戦士を彷彿とさせる。上背は180cmほどであり、パワー&スピードタイプだ。
それに加えて賢さも兼ね備えているので、敵ボスだったら攻略本で弱点を調べない限り撃破するのは難しいだろう。また、彼は正義感に満ち溢れていて頑固な面もある。
山田のポテンシャル
まだ中学生になりたての12、13歳の頃はその真っ直ぐさゆえに周りと対立することが多々あった。
中1の音楽の授業で、生徒それぞれが自分の好きな曲を聴かせてプレゼンをするという時間があった。
当時アニソンやボカロの曲が流行ってきた頃で、山田のクラスでもそう言った類の曲を紹介する生徒も多かった。
いわゆるオタクグループだ。
一人の男子生徒が「けいおん!」のオープニングソングをプレゼンした。楽曲を聞かせた後の彼のプレゼンはまさしく古のオタクそのもので、声は小さく喋るスピードは光の速さ。知らない人に魅力を伝えるというよりは内輪向けの、自己満足のためのスピーチだった。
彼と仲が良いオタクの数人が大袈裟に拍手と歓声を浴びせ、その次が山田の番だった。
彼が前に出た瞬間、大きな歓声はわざとらしく静まり返った。
山田は12歳にもかかわらず渋い魅力のある趣味を持っていた。
彼は敬愛しているQueenのBohemian Rhapsodyを紹介したのだ。
楽曲を一通り聴かせた後、彼はこの曲のどこが好きなのか、何が素晴らしいのかを純粋な気持ちで、そして熱を持って語った。しかしそれを聞いていたオタクグループの面々は、口々に嫌味を吐き出した。
「洋楽とか何言ってるかわかんねぇじゃんww」
「なんかあいつカッコつけてね?ww」
「やっぱ二次元しかないっしょww」
インターネットに触れたばかりの思春期少年ほどタチが悪いものはない。
当時まだメジャーになりきっていないアンダーグラウンドの世界を経験している俺ら。俺らはこの素晴らしい世界を知っている。それを知らない者は文化人ではないと言わんばかりに、草を生やしまくったのだ。自分の趣味こそ至高であり他人の好きなものは馬鹿にする。まさに悪いオタクという概念の擬人化。
教師は私語のたびに注意をしたが、完全に静かになることはなかった。その嘲笑を鋭い聴覚で察知していた山田は耐えていた。彼は理性を働かせ怒りを表に出さなかった。
発表を終え、山田は細波のような拍手の中自席へ戻った。
拳を握りしめて一人俯く山田に対し、ヘラヘラと悪態をつくネット文化が生み出した化け物たち。その拳がそれらに向いかけた時、音楽の教師は山田の選曲とスピーチを褒め、人のプレゼン中に私語をした生徒らを改めて叱った。
この教師の叱責のおかげで、山田は臨界点に達しかけていた怒りをギリギリのところで抑えることができた。音楽教師の一喝によって静まり返ったクラス。しかししばらくしてその静寂を破ったのは「けいおん!」の少年だった。
「・・・Queenとか古臭いよなww」
最後の草を生やした瞬間、彼は翔んだ。
山田の前の席に座っていたはずの彼は、突然音楽室の宙に舞ったのだ。
映画「時をかける少女」の真琴が、桃を積んだ自転車のブレーキが効かずに踏切へ突っ込んだときくらい翔んだ。
周りの生徒は二次元のアニメをぼうっと見ている時と同じ表情でそのスローモーションを眺めていた。
この現象の原因は山田である。
再三の注意にもかかわらずしつこく陰口を叩くけいおんボーイに我慢ならなかったのだ。最後の誹謗が吐かれた瞬間に山田の沸騰し切った血は筋肉隆々の右脚に蓄えられ、そのセリフが言い終えられると同時に目の前の背もたれに向かって爆発した。
渾身の蹴りは彼らが生やした草原を燃やし尽くした。
気づいた時には自分の席と全く別のところに投げ出されていたけいおんボーイは、もちろんタイムリープすることはなかった。ただ自分の身に何が起きたのか全く理解できなかったらしい。
後に本人に話を聞いた時
「自分に秘められていた瞬間移動の力が発動したのかと思った。」と言っていた。
この事件は自分の尊敬の対象を馬鹿にするものは断じて許さないという山田の信念の強さと、フィジカルの強さを物語るエピソードである。
また、高三の頃、山田には好きな子がいた。周りが囃し立てたことによって最初は断固として拒否していた山田も、最後には完璧にフラッシュモブをやり切って告白を成功させたという話もあるが、これについて細かく書くと広辞苑くらいの文字数になるのでまた今度にする。
実直でコツコツと努力をして成果を上げ、頑固ではあるが優しく思いやりがあって、そして酒癖が非常に悪い。そんな男だ。
私
立派に働いている2人と比べて私といえば、いつまで経っても自立しないどうしようもない男だ。
自分を守るために嘘をつき、行動もしないくせに口先だけカッコイイことを言う。
理想と夢を食って生活をしている気になっているだけの社会不適合者だ。
小学生の頃からほとんど宿題を出したことがないので、一人でいる時間の努力の仕方がわからない。27歳にもなってベッドの上で腹毛を抜いていたら1日が終わっていたりする。
もはや生きているとはいえない。
人に迷惑をかけながらダラダラと好きなことをやっているだけである。
好きなことをやっているはずなのに勝手に落ち込むし、上手く行った時は青天井に調子に乗る。
全ての行動の原動力はモテたいという気持ちである。
モテたいからギターをやっているし、モテたいからミステリ本を読むし、モテたいからお笑い芸人をやっている。
そしてモテていない。
尾澤の様な行動力やこだわりを持って続ける継続力もないし、山田のようにコツコツと努力をして未来の自分のために投資ができる様な勤勉さもない。そして酒癖は悪い。
こんな私のことを2人はずっと応援してくれている。
共通点
我々は高校を卒業してそれぞれ全く別の場所に住む様になっても頻繁に連絡を取り合っている。3人のグループで日が昇るまで語り合ったりする。
この仲の良さは、中学野球部で苦楽を共にした3年間をあってこそというのは紛れもないが、在部中は目立って3人だけが仲良かったわけではない。部活の同級生は全員が仲間であった。
我々3人の共通点といえば、重度の青春病に罹患していたということだった。我々は中高時代から自分がいま青春の真っ只中にいるということを自覚し、この限りある学校生活の中で如何に青春を謳歌できるかということばかりを追求していた。
厨二病とはまた少し違うのだ。
尾澤と山田には校内に彼女がいた時期もあったが、3人は異性からモテるタイプではなかった。
特に私だが。
恋愛で満たされていなかった我々は常に青春を求めていた。
今思えば、本当に求めていた青春というのはめちゃくちゃ可愛い彼女と手を繋いで下校し、駅のホームで2人でいるところをたまたま同級生に見られて翌日の学校で噂になっちゃう的なことだったはずだ。あとチューとかHなことしちゃうみたいな。うん。本当にそう。
しかし異性に対して好意を伝える度胸も、魅力にも欠けていた我々だ。そんな我々が定義する青春とは、とにかく無駄なことをするというものだった。
誰に聴かせるでもなく好きな洋楽のハモリパートを覚えて歌うことだったり、
一年生へ向けての部活紹介で野球部なのにもかかわらず妙な寸劇をやってみたり、ただひたすらに札幌のテレビ塔を目指して歩いてみるという様な者だった。
とにかく変で珍しいことをやっているなと自分たちで思えた時、我々は青春を謳歌している気になれたのである。
だれもやっていないことやってる少数派の俺らって青春じゃんと。
今思い出してみると結構胸にクるものがある。
周りはそんなくだらないことをしている我々を無視したり、蔑んだり、時に面白がってくれることもあったが決してこの輪に混ざろうとはしなかった。
山田は自分のやっていることのくだらなさに気づいて大多数側に行きかけることもあった。しかし心のどこかに刺激を求めているタイプだったので、強めに推すとどんなキテレツな企画でも参加してくれた。
それの最たるものが高三の時のフラッシュモブ告白だったと思う。
高一の頃に初めて3人でテレビ塔を目指して新札幌から15km歩いたのを皮切りに、我々はさまざまな旅に出る様になった。
初めての自転車旅行〜出発編〜
高校三年生時、尾澤と山田の2人は系列校に進学することが決まっていたため、受験勉強をする必要がなかった。その代わり、進学のために論文を書がなければならなかった。2人が論文のテーマに選んだのはアイヌ文化についてだった。
尾澤と山田は高三の夏休み、それについての取材で白老町に行く予定を立てた。白老町とは北海道の中でもアイヌ民族文化伝承の地として知られており、ポロトコタンというアイヌ文化を学ぶことができる施設があった。
札幌から約100kmあるその町まで、旅行がてら自転車で行ってみようという計画を立てていた。
私ももちろん誘われた。
しかし私は他大学へ進学することを決めていたので、論文を書く必要がない。それどころか、受験勉強をしなければならなかった。ただでさえ夏休みはほぼ毎日アメフト部の練習があり、数少ないオフの日を学習に当てるのは受験生として当然の選択だった。
私は2人の誘いの言葉が言い終わる前に「行きます。」と即答した。
こうして野郎3人、真夏のチャリ旅行が決定した。
いくら受験勉強を1mmもしていないバカがいるチームでも、片道100Kmの道のりを1日で往復するのは無理だということは理解していたので、一泊二日の旅程を組むことになった。
朝から札幌を出発し、一日中自転車を漕ぎ続ける。そして白老町に到着して初日はまず一泊。翌日午前中からポロトコタンで取材をする。私には全く関係のない行程を経て、札幌へ帰るというざっくりとした予定を立てた。
最高のチャリ旅行が決定した帰り道、3人はテンションが上がって洋楽をハモりながら帰った。
旅が始まる朝、我々はまずテレビ塔にて集まった。札幌といってもそれぞれ住んでいる所はバラバラだ。テレビ塔は札幌の中心地にあり、どの家からでも距離が変わらなかったので、待ち合わせに使われることが多い。
そういうわけでこの地が選ばれた。
というわけではなくなんとなくテレビ塔はカッコいいしセーブポイントっぽいから大体集合場所はここにしている。尾澤と山田の家からだと5km程度だが、普通に私の家からは20kmくらいあるし。
当日の朝。
私は親父が昔から乗っているクロスバイクを借りて早めに家を出発した。珍しく一番についた私はタワーの真下で彼らの到着を待っていた。
快晴の大通り公園。太陽から降り注がれるギンギンの日差しで目が焼けそうだが、風が吹けば爽やかに涼しい。
旅の出発としては最高の天候だった。5分ほどして、碁盤目のビルの隙間から姿を現したのは、尾澤だった。
楽しみだなんだと興奮気味に目の前で騒いでいる尾澤を見ながら、私は絶句していた。
彼の自転車のハンドル前にはカゴがついてあった。
彼はママチャリでやってきたのだった。てっきり、この計画を立てるくらいなのだからロードバイクかクロスバイクは持っているのだろうと思っていた。ママチャリで往復200Km走ろうと決断した頭の中を覗きたい。
彼は家にこれしかなかったし、ハンドルはクロスバイクと同じ形をしているんだから大丈夫だと言っていた。
私もそれを聞いて、
ああ、ハンドルがクロスバイクと同じ形をしているから大丈夫だな、と思った。
不安事が消え、2人で談笑していると、遠くから「キィーキィー」と甲高い金切り音とともに山田が近づいてきた。その姿を見た我々は腹を抱えて笑った。
山田が乗ってきた自転車は、チェーンも錆びついている年季の入ったママチャリだった。
ハンドルもしっかりU字型で、まさしく古のママチャリ。
というかもはやママチャリの化石であった。
まだスタート前なのにも関わらず汗でびしょ濡れの山田は、家にこれしかなかったし、まだ壊れてないし走れるから大丈夫だと言った。
私たちはそれを聞いて、まだ壊れてないし走れるから大丈夫たな、とは思わなかった。
尾澤がヘラヘラしながらこれは絶対無理だと山田を笑った。
山田も初めは大丈夫だと笑っていたが、しつこい位笑いが治らぬ尾澤が気に障った山田は「テメェもママチャリだろうが。」と憤った。
ブチギレの台詞の中に「ママチャリ」が入るなんてことは世界でも屈指の珍しい現象だろう。
尾澤は「いやいや、俺のはハンドルがクロスだから。」というチャンバラソード一本で喧嘩に応戦していた。
ボロいママチャリvsちょっと新しいママチャリという世界一底辺の争いが始まった。
尾澤と山田はよく喧嘩をする。
大体は尾澤が山田を怒らせる。だらしのない尾澤を、山田は基本的に信頼していない。計画性もなく突拍子のない行動をして大失敗している姿を我々は何度も見ている。そんなヤツに笑われるなんて許せないのだ。
尾澤としては、今回もそういうノリに乗っかっている時点でお前も同等の人間じゃないか、ということだ。
まぁ、私はどちらの気持ちもわかる。
性格が反対の二人は中学の頃から小さな喧嘩を数千と繰り返し、それと同じ数仲直りをしてきた。なんかまた言い合いをしているなと思えば、数分後には二人で楽しそうにおすすめのプロテインについて話している。そしてお互いの嗜好が違ってくるとまた言い合いが始まり、また気づけば二人で洋楽をハモったりしている。
今回もしばらく言い合いが続いた後、
尾澤の「俺の弟のマウンテンバイク貸せるよ。」という提案に対して、それまで喧嘩をしていた事実なんてなかったかの様に山田が
「ありがとう。借ります。」と即答して解決した。
一度尾澤の家に向かって山田の自転車と弟のマウンテンバイクを交換した。マウンテンバイクは道路を走行するには向かなそうだが、実際見てみると弟のものはスポーティなタイプで、山田のボロママチャリに比べれば明らかに走りやすそうだった。
結局3台並べてみると尾澤のクロスママチャリが一番お粗末に見えた。
満足そうにマウンテンバイクに跨がる山田の横で、尾澤はハンドル前についたカゴを見つめながら切ない顔をしていた。
初めての自転車旅行〜秘密の近道編〜
漸くスタートした自転車の旅は、順調に進んでいった。北海道の夏の風を切りながら、3人は快調に自転車を飛ばしていた。
白老町までの道のりは国道36号線という北海道の大動脈をひたすら真っ直ぐ進めば良かったので、道に迷うこともなかった。一応私は自転車にスマホホルダーがついていたので、Google mapを見ながらナビをしていた。
しかし役割は「間も無く札幌ドームを通り過ぎますよー。」とガイドをするくらいのもので、一本道の旅に道案内は必要なかった。
札幌の市街地を抜け、隣町に入ると交通量は減り、自然が増え始めた。遠く先まで見通せる真っ直ぐで広い道路のすぐ真横には一度入ってしまえば出てこられない様な広大な森林があり、その緑の中からは数千匹のセミの大合唱が響いていた。
3人の声も聴こえないほどの五月蝿さだったので、特に会話をすることもなくひたすらペダルを漕ぎ続けていた。
チャリに乗りながらも若干の退屈を感じていた私はふとスマホに目を落とすと、Google mapが示している道と我々は違う方向に進んでいることに気がついた。
どうやら、真っ直ぐの道を行くよりも20kmほどショートカットできる別れ道が2kmほど前にあったらしい。
私はセミの声に負けない様に、血管がちぎれるくらいの絶叫で2人を呼び止めた。
一度自転車から降り、3人でどの道を行くか話し合うことになった。
このまま進んでも到着することはできるが、Google先生が近道を教えてくださっている。どうするか。
3人が口を揃えてまず言ったことは、「そんな道あったか?」というものだった。周りを森林に囲まれた道に一本の別れ道があれば誰か一人くらい覚えているはずだが、誰もそれを見たという記憶はなかった。このまま戻っても、そんな道がなければただの無駄足になってしまう。
しかし「秘密の近道」という響きが3人にとって美しすぎたため引き返すことになった。分かれ道を見逃さない様に来た道を戻っていると、鬱蒼と茂った森に少しの切れ目があるところを発見した。
まさしくそこが、Google mapが示した別れ道のポイントだった。
それは舗装された車道ではなく、土や砂利が剥き出しになっている獣道だった。車が通り抜けられない様に鉄柵が建てられており、3人は「この先、熊注意」という注意書きを呆然としながら眺めていた。
しばらくの沈黙が流れた。
3人がセミの声に飲み込まれそうになった時、自分の自転車がママチャリだという事実を忘れている男が「いや、行くっしょ。」と言った。
山田は反対すると思ったが、マウンテンバイクに乗っているためやぶさかではないようだった。私は元から「秘密の近道」感が溢れ出しているこの道を行かない手はないと考えていたため、全員の意見は一致した。
鉄柵の向こうへ自転車を投げ込み、3人は森の中を進み始めた。熊は大きい音にビビるという尾澤の助言により、みんなで歌ったりベルを鳴らしながらズンズン森の奥へと潜っていく。
先ほどまでの直射日光は木々によって程よく遮られ、ひんやりとした空気と濃い緑の香りが非現実感を増幅させた。
森の外からはセミの声に紛れて聴こえなかった、何種類もの虫の鳴き声、鳥のさえずり、風にゆれる枝々のざわめきが重なり、巨大なオーケストラとなって我々の大冒険のBGMを奏でていた。
ファンキーモンキーベイビーズを歌いながら、ますます荒れていく獣道を汗を垂らしながら一漕ぎ一漕ぎ前進して行った。幻想的な森の中を進む我々は、間違いなく「青春」していた。全員がこの非日常に酔っていた。
5kmほどアップダウンの激しい獣道を進んだところで別れ道があった。一度自転車を止めて私はGoogle mapを確認していた。尾澤が水筒の水を飲んで「うめぇ」とか言って汗を拭いているとき、山田は何やらスマホを凝視していた。
冷静な山田は熊にあったときの対策を調べていた。
そして冷静に「北海道の羆は人の味を覚えているから、音立てたりすると逆に寄ってくるらしいよ。」と言った。
その言葉は、先ほどまで歌い狂い、白昼夢の中にいた3人を現実に引き戻した。
私と山田で尾澤を責め立てようとした折しも、森の中から「ガルルゥ・・・」とくぐもった低い声が響いた。
熊だ。
3人は顔を見合わせ、一言も発さずに自転車を漕ぎ始めた。こんなに自分たちが死の近くにいたなんて、青春病の我々は想像だにしていなかった。
今まで爽やかな自然の香りだと思っていたものが、その鳴き声を境に強い獣臭に感じられた。
いくら必死に漕いでもぬかるみに車輪をとられてなかなか進まない。ゾンビに追われてダッシュで逃げてもうまく走れない夢の中の様だった。
特にママチャリの尾澤は半ベソでついてきていた。クロスバイクの私はパンクを心配しながらガタガタの道を進んだ。その点マウンテンバイクの山田は有利で、荒れた道を最前で進んでいた。
下り坂に差し掛かったとき、一番前の山田が「あ!!!!」と叫んだ。
徐々に山田のスピードは減速し、我々の真横までやってきた。
その姿を見て、初めて彼の絶叫の意味と、いかに彼が今絶望の淵に立たされているかを理解した。
ハンドルの真ん中部分を固定するネジが外れ、
すっぽりとハンドルが取れてしまっていたのである。
仲間の絶体絶命の姿を見ても我々にはどうすることも出来ず、山田へ対する今までの感謝の気持ちを念じることしかできなかった。
徐々に後退していく親友に「来世でまた会おう。」と心の中で言った矢先、彼は片手で外れたハンドルの連結部分を押さえ、チェーンから火花が出んばかりのスピードでペダルを漕ぎ私の横を追い抜いていった。
彼がフィジカルモンスターだったのを忘れていた。常人では持ち得ない筋力とバランス感覚で窮地を脱したのだった。
ぬかるんだ道に苦戦しながら約3時間ほど無我夢中で自転車を漕ぎ続け、なんとか森を抜け切った我々は、戦地から帰ってきた戦友の様に抱き合った。
山田はフラッシュボブで付き合った彼女に電話をかけ、「愛してる。」と一言伝え電話を切っていた。洋画さながらの情景に対して誰も突っ込むことはなかった。ただ、生きていて良かったと全員が心の底から思っていた。
初めての自転車旅行〜しろくま編〜
秘密の近道大作戦は無事失敗し、すでに日は沈んで辺りは暗くなっていた。白老まで残り約20km、最後の力を振り絞って自転車を漕ぎ出した。
海岸沿いの道をひたすら真っ直ぐ進む。街灯もほとんどなく、光は我々3人のライトと、猛スピードで走る車のヘッドライトのみ。左を見ればまるで目を瞑っていると錯覚するほど漆黒の海が広がっており、そこから吹き付ける海風が何度も我々を車道に押し出そうとした。
残り10km地点で私の自転車がパンクした。
明らかに車体がガタガタといい始めたので止めて確認したところ後輪に釘がぶっ刺さっていた。
私は「いやぁ〜残り10kmなのになんだよぉ。どうしたらいいんだよぉ。」と喚きたかったが、片手でハンドルを押さえた男が「よし、頑張ろう。」と言ってきたため有無を言えずパンクしたチャリで走行することになった。
結局ママチャリだけが無傷のまま白老町に到着し、我々は宿を探し始めた。
宿というのは屋根のある所という意味である。
白老について全員の財布の中身を確認した所、山田は5000円ほど、尾澤と私は二人合わせて2000円くらいしか持っていなかった。
3人ともハナからお金を払って宿泊する気などなかったのだ。お金があったとしても白老町にはそんな宿泊施設などない。
尾澤が屋根のついた広めのバス停を発見し、そこが第一候補となった。我々にとっての最大の恐怖はお化けでも犯罪者でもなく熊だった。
できる限り頑丈な扉がついているバス停を探すために白老の町を徘徊していると、ポツンと光のついている建物を一軒発見した。
そこは「しろくま」というコインランドリーで、23時近くなった時間でも営業していた。それを見て尾澤は「スウィートルームじゃん。」と歓びの声をあげ、
我々は皮肉にも「くま」を寝城とすることになった。
24時間営業だと思っていたが、23時になると電気が消え、外に出られなくなった。これは悪いことをしてしまってるんじゃないかと一抹の不安を抱えながらも、3人は1日の疲れがどっと押し寄せ、そのまま眠ってしまった。
外の明るさで目が覚め、半覚醒の状態で3人は外から一人の男性が駐車場の車から降りてくるのを見た。
おそらく管理人だ。夜中に勝手に侵入して寝ているのだ。
これは怒られるぞ。
全員がそう思っていたが疲労が溜まりすぎて体は起き上がらない。自動ドアが開いて男性が入ってきた。
尾澤が上体だけ起き上がらせ、形だけでもの謝罪として「すみません」と男性に言うと、管理人は「ああ、ちょっとごめんね、もう少し端っこで寝といて」と眠る位置を注意したにすぎなかった。
私は曖昧な意識の中で、なんかよくわからないけど、北海道っていいなと思いながら再び目を閉じた。
8時過ぎにまた目を覚ました時には、一人のおばあちゃんがランドリーで洗濯していた。すぐそばで若者3人が眠っているなんて日常茶飯事なのか、目覚めた我々に「おはよう。」と声をかけた。我々も自分達の祖母の家で起床したときの様に寝ぼけた声で挨拶を返し、ゆっくりと寝袋を片付け始めた。
おばあちゃんも我々の姿を気にも留めない様子で洗濯物を取り込み、しろくまから出て行こうとする我々に「いってらっしゃい」と声をかけ、我々も何の疑問もたずに「行ってきます」と返した。
札幌に帰った翌日になって発覚した事実だが、白老町に熊が出たと言う内容のニュースが放送されていた。熊が出たのは我々が泊まった日の朝方で、出没場所はまさに最初に泊まろうとしていたバス停の目の前だった。
そこに泊まりかけた時に現れた「しろくま」と言うコインランドリー。
優しすぎる管理人と自分の親戚の様なお客さん。
我々の命を守るためにその光へと導びいてくれた。
今思えばあそこは存在してないんじゃないか。天国の飛び地だったのではないかと思う。
しろくまを出た後、町に一軒しかない自転車屋で私のパンクと山田のハンドルを直してもらった後にポロトコタンへ向かった。
中へ入るとまず檻の中に羆がいた。どこまで逃げても奴はついてきていた。我々は確実に羆に呪われている。羆の説明文には「北海道の羆は人がいると気づいたら寄ってくるので音を鳴らさないでください。」としっかり書かれていた。
山田が尾澤のことを追求する空気が一瞬流れたが尾澤が光の速度で「ごめん。」と言ったため言い争いに発展することはなかった。
その後アイヌ文化についての講演を聞いたり、博物館で儀式に使われた道具を見たり、尾澤が全財産の3分の1をはたいて購入した鹿のザンギが固くて微妙だったりして、ポロトコタンでの取材は終了した。正直私には全く関係のない行程だったのでほとんど覚えていない。
札幌への帰り道は、Google mapを無視して大動脈を真っ直ぐ進んでいった。信じられないくらい何の危険も起きることはなく、まだ日が沈む前にテレビ塔に戻ってこれた。二人に責められそうな雰囲気を感じた私は「ラーメン二郎へゆこう!」と言って茶を濁し、3人揃ってマシマシのラーメンを平らげたのだった。
一生の友人
白老の旅を通じて私は一生この2人と付き合っていくんだろうなと思った。
この3人じゃなかったらこの旅が実現されることはなかったと思う。
この旅が頓挫する理由なんて星の数ほどある。
まず、他の友人グループで白老町に自転車で行こうと提案した時点でしんどいから電車で行こうと言われる。
テレビ塔でママチャリに乗ってきた時点でこれは無理だから電車で行こうと言われる。
近道の入り口を見た時にこの道やばいからちょっと先の駅から電車で行こうと言われる。
パンクした時に自転車を捨てて電車で行こうと言われる。
というか宿泊するお金もないんだから日帰り出来る様に電車で行こうと言われる。
大体こうなることは想像に難くない。
また、これだけのハプニングが起きているのにも関わらず、誰一人弱音を吐くこともなく最後まで楽しんで旅をやり終えた。
それから今に至るまで、我々は琵琶湖をチャリで一周したり、小豆島へサバイバルしに行ったり、東北を車で一周したり、色々なところへ行った。
尾澤と山田は二人で海外に行ったりもしている。
嫌いなものはそれぞれ違うかもしれないが、好きなものが一緒なのだ。
自分が本気で楽しんでいる時に、横で自分と同じ表情をしている仲間がいる時ほど嬉しいものはない。
私はこの2人と旅をしている時が本当に楽しいのだ。
尾澤と山田の小さい喧嘩も、それぞれの個性がある故のぶつかり合いで見ていて微笑ましかった。
いくら喧嘩していても最終的には肩を組んで帰路についているのだ。また3人で訳の分からない旅行をしたい。
しかし4ヶ月前から、3人で一度も話していない。
私と山田は都内に居り、尾澤は現在も北海道に住んでいるのでいつでも直接会えるわけではないが、LINE上でも3人の会話はないのだ。今までは週一ペースで夜通し電話をしていたというのに。
理由は尾澤と山田の喧嘩だ。
尾澤は今年の3月に東京に来て、山田のマンションに泊っていた。
何日か滞在した尾澤は東京を発つ前日、横浜で海外勤務時代のお客さんとの会食に行っていた。
翌日の出発が早かった尾澤は会食が終わった後すぐに山田の家へ帰るつもりだった。しかし最終日に一緒に酒が飲みたかった私は山田の最寄りの駅の居酒屋に尾澤を誘った。
私は私でその時ガスが止まっており、山田の家でシャワーを借りていたためちょうどよかった。
山田を誘わなかったのは別に彼をハブったわけではなく、禁酒していたからだ。
山田は今年の初めに仕事のストレスからか酒癖の悪さが爆発し、人に結構な迷惑をかけてしまったことがあった。
それを反省した山田は禁酒を始め、毎朝ランニングをするという禊の日々をスタートさせていたのだ。
生活を律していた山田は早めに就寝するため、家で騒ぐなんてことは出来ない。
私は山田に尾澤と飲んでくることを告げて家を出て行った。
飲み会が始まった。
最初は翌朝を心配していた尾澤だったが、酒が進むにつれてどんどんと陽気になり、翌日のことなんてどうでも良くなりさらに酒を飲み続けた。
私も尾澤も酒が入るとエンドレスに飲み続けてしまうタイプであり、深酒になるのは必須だった。そこから何時まで飲んだのかは覚えていない。
浴びるほど飲んだ我々はそれぞれの帰路についた。
私は自分の家へ、尾澤は山田の家へと千鳥足で歩いて帰った。
日が昇る直前に家についた尾澤はドタドタと山田の睡眠を阻害しながらエアーベッドに倒れ込んだ。山田が尾澤の寝床として用意してくれていたものだった。
翌朝、鳴り止まぬアラームにイライラして目が覚めたのは山田だった。尾澤がかけたアラームは一切本人に止められることなく響き続けていた。
山田が尾澤に荒々しく「起きろ」と言うと、尾澤は赤い目を半開きにしながら喃語の様な声を出した。
まだ泥酔している男はアラームを止め、スマホの時計を見ると飛び起きた。焦りながらもふらふらした足取りで準備を始めた。
ベロベロで帰宅した尾澤は山田の家を大いに散らかしており、山田は片付けろと尾澤に強く言った。
しかし、酔っ払いは飛行機に間に合うかどうかしか考えていなかった。
散らかした部屋はおろかエアーベッドの片付けも仕切らずに、出発しなければならない時間が来てしまった。
山田が「どうすんだよこれ」と言うと、尾澤は「悪い。俺がまたくる時自分で片付けるから置いといて」とまじでそう言うことじゃない回答をして出て行ってしまった。
腹が立った山田は3人のグループ内で尾澤に対する怒りをぶちまけたのち、正式に謝罪がない尾澤を追放した、と言うものだった。
これだけを聞くとどう考えても尾澤が悪い。酒の席に誘った私も若干の責任を感じていたが、どうせ直ぐに仲直りするだろうと考えていた。
しかし、山田が尾澤を追放したのがまずかった。
私と尾澤の関係を無視して追放したことにも少々違和感を覚えた。
尾澤から話を聞く分には俺は謝ったと言っていた。
これの真意は二人にしか分から無い。
おそらく尾澤の謝罪は軽く見えるものだったのだろうと想像できる。その上で山田は謝罪が足り無いと怒っているのも想像できる。
いつもだったらさらに尾澤が謝って山田が許して終わりのはずなのだが、尾澤は素直に謝罪する気持ちになれなかった。
それは、前年に起きたことに起因していた。
山田は札幌に帰省して尾澤と飲んでいた。そこでダブルの酒癖悪いが爆発し、何やかんやあって山田が尾澤に結構悪いことをしたのである。私は話を聞いただけだが、これは山田が悪いと思っている。
被害にあった尾澤は山田に対して不信感を募らせたが、自分も悪いことがあったと反省して山田のチョンボを水に流すことにした。
それに続いて、山田が禁酒のきっかけとなる出来事を起こしてしまっても、今までの過ごしてきた日々から山田が悪い人間じゃないと我々は知っていた。
だからこそ一生懸命禁酒をして努力している姿を応援していた。
それなのに、俺が酔っ払って迷惑をかけたら許してくれないのか、と言うのが尾澤の言い分だった。
ここまで二人の喧嘩が長引いたことは今までにない。
歳を重ねるごとにお互い譲れないものが大きくなってしまって、謝ることが難しくなっているのだろう。
それでも二人の言い分をそれぞれ聞き続けていると、仲直りしたいという気持ちはお互い持っている様だった。
7月の初め、今から10日ほど前に山田が何の脈絡もなく尾澤をグループに呼び戻した。
山田は一方的に、「いいことがあったから尾澤を許します。」とグループラインに発言した。
ここで私がキレてしまった。
勝手に人の友人を追放して、勝手に戻してその理由が自分にいいことがあったからなんてどんだけ人の気持ちを考えていないんだ。
私はごめんねの一言が言えない二人のために何度もお互いから意見を聞いて仲裁しようとしていたのに、何なんだよ。
二人別々の個チャでお互いの話題をあまり出さない様に話す気持ち悪さを知っていたのか君たちは。
私が一通り憤った後に
尾澤は「いいことあっておめでとう。今度話したいね」と返していた。
多分二人は仲直りしたい気持ちがあったから、謝罪の言葉がなかったけれどもそれは照れ隠しであり、このままいけば今までの様な関係性に戻っていたのだろう。
しかし私が突然憤ってしまった。
それが原因で今に至るまでグループラインには微妙な空気が流れており、今までの様に何でも言い合える様な場ではなくなってしまったのだ。
今回の一件、どう考えても3人とも悪いと思うんだ。
だからさ、
禊として3人で地獄のチャリ旅行をしに行かないか。