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コーチの社会分析 Note【繰り返されるオーバーユース。観光行政KPIの根本課題「数依存」①】

はい。今回も「地方創生ではなく地方創世」というコピーで綴る。そんなソーシャルアントレプレナーでの視点から話をしていきたいと思います。

今日はその中で「数」というテーマをこの記事からスタートしていきたいと思います。

☆富士山のオーバーユース問題

ちょうど10年前の2013年に世界文化遺産として富士山が登録され、短い開山期間(7~9月)に普段は登山とは縁がない人も多数含む過剰な状態になることは既に予測されていました。当時の試算では混雑緩和に対して「入山料7000円」が適当という試算もありましたが、結果的に行政サイドの意向で「任意で入山料1000円」というスタートになったわけです。

当時のヤマケイオンラインによるリサーチでは入山料徴収に79%が賛成。1000円~3000円のゾーンに46%、5000円~7000円というゾーンにも15%の支持があり、登山者の理解が見受けられます。詳細コメントをみてもやはり「何の為にどのくらいの予算を使うのかという開示」を求める声が多くあり、特にトイレやゴミ、救護所、落石等への対策には十分な予算をつけるべきだという意見が多かったようです。あとは「天下り予算NG」も多かったですね。

加えて面白いのがこれらの入山料は「強制」にせよという回答が9割を超えていました。このあたりも登山経験者による視点らしいところで、現地支払いに加えて上高地スタイルのようなアクセスバスや駐車料金への加算といった声も多く見受けられています。

しかし、なぜ行政サイドは「任意で1000円」という極めて緩い対応を選択してしまったのでしょうか?

☆観光再開でオーバーユース待ったなし

ちなみにですが、この任意で1000円。これでお金が集められずに不足すると静岡県、山梨県は一般財源から不足分を投下。いわゆる県民負担が発生します。そして、当然のように任意1000円(協力支払いの受容者はおよそ6割前後)で目標に到達するわけもなく、不足してきた様々な予算に対し、知らず知らず山梨、静岡両県民は、その負担を余儀なくされてきたわけです。

しかも、NHK静岡の報道によると【富士山保全協力金、いわゆる“入山料”の一部は山小屋のトイレ新設や補修に充てていますが「維持管理」は対象となっていません】とのこと。
 
もはや行政がどのような認識で維持管理(環境保全)に予算充当をしないのか!?という判断基準はわかりませんが、山小屋一棟でのトイレ維持管理費が約300万円というリアルに対し、登山者のトイレ使用料(1回200円)で軽減されているのが約60万円。充当がないので固定費で約240万円の大赤字になっています。単純に宿泊一人の利益が3000円とすると約800人分の利益がそこで失われている。民間の経営として大変厳しいということになります。

しかもこれらバイオトイレは一日200人ほどで処理限界となることから、オーバーユースになればなるほど富士山の環境は汚染されていく・・ということにもなります。行政サイドは広報や携帯トイレの配布といった対策を述べていますが、これらが根本的な対策となりえない。やった感を出すアリバイ作りであることは誰の目にも明らかでしょう。

そして、これらの課題は、かつて屋久島でも同様に発生したことであり、そこからの学びや対策を事前にたてることは十分に可能でした。とも、ここで触れておきましょう。

☆当事者ではない人の虚栄心。「数」という罠

引き起こされる問題の対策を後追いで行なっていくだけでは問題解決にならない。屋久島憲章で謳われた自然との共生という観点から考えれば、まずは、増えすぎた入山者の絶対数を抑制す ることが先決である。 提言では、縄文杉コースの入山者数と山中の各山小屋の宿泊者数、および、登山者1グループあたりの人数に一定の枠をはめることで、利用者のピークカットをすることを進言した。その上で、それら上限数に見合ったトイレの容量を確保することを求めている。それをしっかり行なっていくことが、行政の責務である】「屋久島への提言」-危機遺産にさせないために- より引用抜粋

というわけで、屋久島で起こった事象。失敗事例を見事に繰り返しているのがいかにもな行政文化(そして失敗とは認めない)なのですが、人間に不可欠な生理現象でもある排出行為。その動かせない部分から環境負荷や持続可能性を逆算する。そんな簡単な算数が出来ていないということになります。

これらの根底の考え方で個人的に根深いなと考えるのが「質」より「量」というカルチャーです。

昨年のこちら。世界遺産・石見銀山(群言堂)での記事にも書きましたが、とにかく「何万人来ました!」が行政の指標になっている。この誤った常識、考え方こそが本当に厳しいんですね。

先の屋久島の提言も日本山岳会の面々が「制限」と提案しても行政側は「制限しません」という結論になる。そして、制限をしなかったことで起こった様々なデメリットは民間努力や民間のボランティアで解決してもらおうとする。予測可能であったのに何一つ対策はしない。

これでは、民間が消耗し、国内や地域の経済が損耗し、民間(人)が撤退し、あとは野放図な場所だけが残される。自然であっても街であっても、この考え方からは、そんなGOALにしかたどり着けない。このたった一つの考え方が、今の危機的状況をつくってきたと言っても過言ではないでしょう。

今回の富士山の件でも未だに行政側からは義務化や値上げといったワードは聞こえてきません。ただただ「任意の協力者を7割に増やす広報頑張ります!」というばかりで、根本解決しようとしていないようです。

なので、これらの課題と呼ばれるものは、総じて「質」より「数」という行政サイドの「文化」。「無謬性という病」が生み出す偽りの成功体験や自己正当化の思考、行動が生み出した結果ではないか・とも考えるわけです。

*ということで2000字も超えてきまして次回に続くとします。
 

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