水を飲んだら異文化理解になった話
色々な国や地域で色々なものに出会うと、いわゆる異文化理解とは自分を知ることなんだなと、つくづく思う。そんなことを書こうと思う。
自分が生まれた町の水
いつも使っている水は軟水か、硬水か、水源はどこか。
自分の関心ごとの一つに「水」がある。住んでいる土地の水の性質や水源なんかを調べるのが好きだ。
そのきっかけは自分が生まれた町の水にある。
僕が生まれた町は北海道東部の標茶町(読み方はググってみてください)というところで、水がとんでもなく美味しい。数年に一度実家に帰るとまず確かめるように水道水を飲む。蛇口から出てくる水は年間を通して適度に冷たく、軟水特有の甘さを含んだ、何というか”やさしい味”がするのである。
標茶町のホームページには以下のように書かれている。
「標茶町の水道資源は豊富な地下水や湧水を水源として利用しています。 標茶市街地で利用する上水道は、地下260メートルから汲み上げた地下水をご家庭にお届けしています。」(標茶町ホームページ「水道について」より)
地下260メートルからの水
「日本地下水研究学会」のサイトには、
”地下水は、一般的には、砂れき層の間げきに存在しており、流動している、あるいは流動することができます。このように砂れき層に帯水してポンプで日常的に揚水できる水資源としての地下水の深度は、せいぜい数100メートルまでです。”
とあり、260メートルはかなり稀な深さと想像する。
そしてこの標茶町の水源は摩周湖にある。
摩周湖。そう、霧の摩周湖。
摩周湖は世界有数の透明度を誇り、かつてはバイカル湖を押さえて透明度ランキングで堂々の世界チャンピオンの座に着いていたそうだ。国立環境研究所のサイトでは摩周湖の透明度調査の結果が公開されており、自分が生まれた年の結果を見てみると、たしかに36m前後とかなりの透明度を叩き出していたことがわかる。ちなみに1931年の調査における41.6mという記録は、今日まで90年近く更新されていないワールドレコードだそうだ。
水が売られているということ
こんなふうに世界的に稀有な環境を背景に豊かな資源があり、その恩恵としてきれいな水が利用できるのはものすごく贅沢なことなのだが、自分が貴重さを本当の意味で理解したのは、生まれた町を出てからのことだった。
小学生の時に東京で初めてコンビニというものに入った。
見たことのない飲み物やお菓子やおでんや唐揚げが深夜でも堂々と並んでいることに驚いた。そしてさらに衝撃的だったのは「水が売られている」ということだった。「水はいつもそこにあるもの」というのが当然の環境で育った自分にとって、「水を売り買いする」という状況が全く理解できなかった。
その後に土地から土地へ移動するようになると、「水道の水は飲めるのか」「飲食店で無料で提供されるかどうか」「その地域は軟水か硬水か」「水源はどこか」などは、そこで暮らすための大事な要素として心の中のチェックリストに置かれるようになった。
ケルンの住んでいた地域では水道水は飲料可であったが、超硬水で多量のカルキが含まれておりフィルターを通して飲む人が多かった。気をつけないと尿管結石になるのだ。飲食店では比較的ミネラルウォーターが一般的で有料の場合が多く、ビールが水より安いという噂が本当だったことに驚いた。ちなみに、硬水で作られたビールは一般的に酸味が強く、いわゆる「キレ」を生み出すらしい。
何度か訪れたフィンランドではほとんど地域では水は無料だった。空港にも無料の水サーバーがあり、ドイツに慣れた頃だったので新鮮だった。
そしてここシドニーでも行く先々で水は無料で出されることがほとんどで、公園では水筒に飲料水が補給ができる設備をよく見かける。
そして、こうした機会の度に感じるのは、子どもの頃から身近にあった水の環境がいかに恵まれているかということだった。
「自分」を知る意味とは
色々な場所で色々な人と出会うと、「私にとって当たり前」が「他人にとって当たり前」じゃなかったり、反対に「他人にとって当たり前」が「私にとって当たり前」じゃなかったりすることがよくある。あるいは、自分の身近に当然のように存在していたものが、他の場所ではとても価値のあるものだったとか、実は世界のどこにもない唯一の存在だったとか、そういう発見もたまにある。
つまりは、「自分」の特徴や意味や価値なんていうものは、「自分じゃないもの」に出会ってはじめて輪郭が見えてくるものなのだと思う。そして、外の世界に出て色々なものに触れ合うことの目的は、ただ知らなかったものを理解するのと同時に、「自分」をより深く、広く理解することにあるんじゃないかと思う。
最近読んだ『マルチ言語宣言: なぜ英語以外の外国語を学ぶのか』(京都大学学術出版会)という本の中に、こんな一節があった。
”外国語学習の重要な役割は、自己発見のために学ぶのである。そこには、ほかの人々が自分とは異なった振る舞いをすることを発見することで、自分の日常の行動を発見することも含まれる”(p238)
こう考えると、面倒くさくなりがちな「自分とは違う存在」に対する視点だって少し変わってくるんじゃないだろうか。自分と異質なものを「自分を深く理解させてくれる存在」として敬意を持って付き合える、みたいになるのではないだろうか。
水ぐらいで、こんな大袈裟な考えに導いてくれた標茶町の水道課の皆様には本当に感謝です。
つづく
※写真は、生まれ故郷に当たり前のようにある風景。360℃地平線が見る丘。こんな環境が当たり前に存在してることもすごいことだ。
ここのレストランの格別な地元産ステーキもまた、ここの水を飲んでいる牛からの恩恵なのである。