見出し画像

コンフォートゾーンの罠: 脳が私たちを停滞させる仕組みとは

「体験してみなければ分からない」

一度は聞いたことはあるのではないでしょうか。

「体験して体感してみなければ分からない」というのは否定できないことでしょう。

しかし人によっては「そんなものは想像がつくから体験する必要はない」と言う人もいます。

すでに体験したものに関しては想像がつくというのは間違いない。

しかし未知なものに対して体験していないのに「想像がつく」というのは変な話にも聞こえます。

どちらが正しいのか。

まあ「考え方の違い」と言えばそれまでではありますが、今回はそれを深掘りしていきたい。

今回は以下の本を読んで頭の中で結びついたものがあるので色々考察していきます。

そもそも言語とはどうやって生まれるのか。

この本では「オノマトペ」から始まり、より抽象度の高い言葉に発展していくとあります。

広辞苑によると以下の通り。

オノマトペ:擬音語に同じとし、ある音に似せて人工的に作り出す音、実際の音をまねて言葉とした語

例えば、 

「砂でお城を作る」を小さい子どもが表現すると「お砂をペタペタして、おっきいのができたよ!」

鍋でご飯を作っている母親を見て「クツクツしてるの?」

といった感じで、目の前で起きている事象を直接的に、直感的に表現しようとする時に使われるのがオノマトペでしょう。

オノマトペとは五感を通して得られた情報を直接的に、直感的に表現する方法なのです。

つまり身体情報があってのオノマトペであり、オノマトペがあるからこそ、言語に発展していったと言えます。

身体を通して得られる経験が非常に重要だということですね。

では人間とその他の動物との言語面からの見た違いはどこにあるのでしょうか。

他の動物にはなく、人間にしかない特性として、物体と、現実に起きている事象から得られた情報が双方向に結びついていることがあるようです。

例えばチンパンジーにリンゴを指差して「これはリンゴだよ」と教育すれば「リンゴを持ってきて」と伝えるとリンゴを持ってきます。

しかしその教育状態のまま「赤くて丸い果物を持ってきて」とチンパンジーに伝えても、それがリンゴだと推測することはできません。

しかし人間は「これがリンゴだ」と教育すれば、「赤くて丸い果物はリンゴだ」と推測ができるということです。

つまり人間はこの”推論する力”を持っていることが他の動物との大きな違いの一つである、といえます。

人間は生物としての身体能力は高くはないですが、生き残った要因の一つとして、この推論する力があったのではないでしょうか。

ここに「想像できるから体験しなくてもいい」と思う要因があると私は考えます。

人間は未知の出来事であっても、今までの人生経験を使い推測できる能力があります。

つまりこれがあるからこそ、野生の世界で言えば、今までの経験から危険予測をし、未然に危険を避けることで生存率を上げることができたのでしょう。

推論の力は生存率を大きく上げるための強い要因となるということです。

しかし推論力を身につけた人間は、生存率を上げるために危険を犯さない、無謀な行動はしない、経験則から予測できる範囲内でしか行動しない、という性質をより強く持ったといえます。

いわゆるコンフォートゾーン(心理的快適空間)と呼ばれるものです。

野生の世界や戦時中であればその性質は生存のために強い武器となります。

しかし現代においてはこの性質が

- 知らないことは否定する
- 未知なことには挑戦しない
- 想像の世界で満足してしまう

という形で表出しているのではないでしょうか。

ゆえに未知のものに関しては反射的に拒否反応が出てしまうのでしょう。

ではBluetoothやWi-Fiのように目にも見えず、触ることもできないものに対して「想像できないから存在しない」と言わないのは何故でしょうか。

それは科学的に証明されていることだから、ということに過ぎません。

そもそも科学は万能ではなく、世界には分かっていないことが沢山あります。

それなのに「科学的に証明されたものじゃないと信じない」となってしまったら、世界は発展しなくなります。

科学は、科学的に証明されていないものに対して仮説を立て、実験し、データを集めていくものですから。

それじゃあ「今日の〇〇、普段と言動は同じだけど、なんか不機嫌な気がする」というようなことを感じたことはないでしょうか。

私はあります。

大学時代、部活の後輩がいつもと言動は同じでも落ち込んでいるか、悩んでいる気がすると何となく察したことがありました。

言語化はできないけど何となく。

この経験がある人は分かるかと思います。

でもなぜ?と聞かれたら答えられますか。

仮にこの事象が科学的に証明されていないとしたら、その感覚は科学的に証明されていないから勘違いだ、と言われて納得するでしょうか。 

きっと納得しないと思います。

「人間は言葉や仕草だけではなく、他の方法で感情を共有する何かがあるのではないか」

という仮説を立て、検証し、データを集めて科学になっていくのです。

つまり「科学的じゃないものは間違っている」という考え方は正しいとは言えないということ。

話が逸れたので今までをまとめると

人間も含めた動物は、まずは身体性(体験、体感)が先に来る。

しかし人間だけは推論の力によって身体で経験していないことでも、過去の経験からある程度は想像することができる。

故に自分の想像できる範囲で世界を完結することができてしまうのではないでしょうか。

だからいつまで経っても考え方がアップデートしない人は、新しい体験・新しい知識を取り入れることを拒否している人だともいえます。

言語の習得過程から見ても、やはり人間はまず身体ありき。

身体をもって経験し、体感することをおざなりにすることは停滞、または退化に繋がると考えています。

知識を得ても体感を伴わなければ、それは知っているだけにすぎない。

知識と体験が合わさることで知恵になる。

そんな話もどこかで聞きましたね。

まさにその通り。

私たちは推論の力という強力な武器にやって生存率を上げましたが、無意識に自分を箱庭に閉じ込めようとするデメリットも背負ってしまったようです。

そこを打ち破るためにどうすればいいのか。

私の仮説は【未知に飛び込むことを当たり前にする】こと。

未知に飛び込むことで

・新しい出会い

・新しい発見

・新しい気づき

・新しい挫折

・新しい苦悩

と新しいことと沢山出会います。

私はそれが喜びに変わる瞬間がありました。

そうすると新しいことをやらない方が違和感が出てきます。

つまり、変化し続けることが当たり前になります。

変化を求めるのは前頭前野の特徴でもあります。

推論の力は赤ん坊でも持っていることが判明しているため、推論力は脳の本能に近い部分なのでしょう。

ゆえに【未知に飛び込むことを当たり前にする】ことで前頭前野に刺激を与えることが重要なのではないか、と考えています。

まあ変わりたくないというのも本能に近い部分の作用なのでなかなか難しいことではありますが。

高校生でも驚くほど聡明な人がいれば、定年間際になっても子どもみたいな大人もいる。

その差はここにあるのかもしれません。

ということで「言語の本質」を読んで、言葉の進化の過程と絡めてなんやかんや考察しました。

では!

いいなと思ったら応援しよう!