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「死んだ魚?食えるかよ!」

言わないと分かんないこと、言ったら納得してしまうこと

これまでのクラスで、私はヨガをしましたか…?

当スタジオで2回ほどクラスを受けてくださったお客様から頂戴したお言葉なんですけど、「私の受けているクラスは、ヨガをしているんですか?」と。

このお客様にとって、人生初のヨガクラスは当スタジオとのこと。いくら普段から僕が「ヨガはテキトーがいいんですよ」なんて言っているとしても、人生初のヨガスタジオとして僕を選んでくださった方に、ヨガでないものをご提供する訳ないじゃないですか。

えっ、これがヨガなんですか?

そう言われるのも納得なのですが、僕のヨガクラスでは「〇〇のポーズ」とか「〇〇アーサナ」とか、もう全然言わないんですよ。なぜ言わないのかって、言ったところで”ヨガっぽい雰囲気が出る”ということ以外に、あまり必要性を感じていないからです。

と、まあここが今回のお話のミソなんですけど、つまり「〇〇のポーズ」って言ってた方がヨガのクラスっぽさがすごい出るんですよ。インストラクターの人から急にワケわかんない姿勢を取らされても、頭の中で「あぁこういうヨガのポーズなんだ」と思うだけで、ワケわかんない姿勢が肯定されるわけです。

もちろん、ヌードヨガとか、ビールヨガみたいな奇天烈なタイプは別に考えてくださいよ…。


死んだ魚?食えるかよ!

本日のオススメは切り刻んだ魚の死体ですよ

お寿司屋に行って、「大将、今日のおすすめは?」と聞いて、「この死んだ魚の切身だよ」って言われることなんてないじゃないですか。料理として出されるのはほとんど全てが”もう生きていない魚”(お魚さん本当にありがとうございます)なんですけど、お刺身であったりお造りであったり、呼び方が変わりますよね。

目の前の物体は同じものですが、呼び方を変えると随分と印象が変わりませんか。魚の死体だと可哀想、お刺身だと美味しそう。


うちのカミさんは超べっぴんで最高

こんな刺身の例のようなことは日常の中にゴマンとあるわけです。結婚当初は「うちの旦那は優しさのかたまりで」なんて言っていたのに、時が経つと「うちの旦那は優柔不断でナヨナヨしい」なんて言っていたり。はて、旦那さんが変わったのか、その人を見る自分の視点が変わったのか。

旦那さんも変な謙遜なんて要らないので、「うちの嫁は超べっぴんで最高な人なんです」を口癖にすればいいんです。言霊の力を信じてますよ。

家庭の外にだって、ありますよね。「コピーを取るだけのつまらない雑務」と思うか、「綺麗且つ迅速にコピーを取れるか選手権」だと思うかは人それぞれ。「あの人は苦手だなあ」というレッテルも、意外と自分の曖昧な気持ちで貼ってたりするんですよ。もし苦手だと思ってる箇所をちゃんと言語化できるのであれば、しっかりとその人を見れている証拠。自分にとっての相手の嫌なところを見つけられるなら、自分にとっての相手の良いところも見つけられるはずですよ。


自分がこの世界をつくっている

自分を中心に世界は回っている

「自分がいなくなっても、この世界は回り続ける」という考えは、物理的に正解ですが、精神的には正解ではないかもしれません。あなたのいる世界は、あなたがいるから存在しているわけじゃないですか。自分の目で見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだり、肌で触れたり、舌で味わいながら、「あぁ生きているな」と実感しているわけです。

スピスピな話をしたい訳ではないんですけど、シンプルに皆さん一度は「なんて楽しい人生なんだ」と「なんて苦しい人生なんだ」を思ったことがあるのではないでしょうか。そんな時って、同時に「なんて楽しい世界」とか「なんて苦しい世界」だなんて思っているはずなんですよ。世界=自分の人生になっているんです。


全てはどのように認識するか

つまるところ、今いる場所、自分という存在や人生を、どう認識するかがあなたの生きている世界なんですよ。目の前にいる可愛い女性やカッコイイ男性は、自分がそう認識するから可愛い人として、またはカッコイイ人として存在してます(人によって認識が違うわけだから、全員の人が必ず誰からモテると思うんです)。

別に僕は「楽しい人生だと思うべきだ」なんて言いたい訳じゃないですよ。皆さんが住みたい世界は、皆さんの認識次第でどうにでもなるんじゃないですか、それって試してみたくないですか、という問いを投げ掛けたいだけです。「私はゴリゴリの理系だからそんなの信じない」という人は、是非とも量子論を調べてみてください。僕たちを物理的に構成している電子も認識によって存在してるんですよ。

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