ぼくのおはなし 〆の段 終
2008年3月
能登半島地震が起きた。1人が亡くなって、家も沢山崩れた。2011に起きた東日本大震災に比べたらちっぽけでも大変な災害だった。
その地震が起きた日の午後。
ある小学校で試合をしていた。
僕は捕手。同級生とバッテリーを組んで
1-0で完封勝ち。球がギュンギュンに走っていて打たれる気がしなかった。捕っていて気持ち良かった。自分を含めた同級生の4連打で1点を取って勝った試合だった。
試合後。勝って嬉しかったけど寂しくて仕方なくてみんな泣いた。
4人いた6年生。
2人が県外に転勤、転校となってしまったのだ。
今年は全部優勝できる。みんなで同じ中学行けるかも??とか思っていたけど、2人が転校。
涙ながらにみんなの口に突っ込まれたあんころ餅はしょっぱかった。
主軸を2人失ったチームは6年生2人
キャプテンはショート。
僕は捕手
投手は4年生だった。
春夏と2回戦敗退。苦しい時期だった。
その頃から色んな事が重なって、少し精神的に疲れたりしていて、何もかも嫌になった時期が訪れた。
理解してもらえない。メンタルが弱い、痛みに弱い、信じてもらえない。一気に人が嫌いになったのもこの時期だった。
多分母親にはかなり迷惑をかけた。傷つけたし傷つけられたし、今は笑って話せるがこの時は多数の人に会うのが嫌なので当然学校も行きたくなくなる。無理矢理学校に通う日々だった。
そうしたらそういう悩みを持っている事を、いきなり担任の先生にクラス全員に言っちゃって更に行きたくなくなった。弱さを知られた気がして、非常に辛い日々だった。辛いまでも行かないけど、楽しくない様な。
たぶん怒りより落胆が先に来るタイプだった。
徐々に人付き合いが苦手になっていった。
何もかもうまく行かない日々。
そんな中、日本舞踊だけは違うコミュニティだったので楽しくやれていた。
5月の北信越大会は二連覇となる優勝。
あとは全国大会での優勝を目指すだけになった。
間違いなく生き甲斐になっていた。
ここが今も日本舞踊を大切にしている所以でもある。
学校のほうは夏休みに入った事で少し気持ちも落ち着いて野球も楽しくなってきた。
踊りの合宿と野球の合宿が重なって、能登と稽古場を行き来したり。
夜な夜な稽古場で語り合ってみんなで泣いたり。
小学生にしてめちゃくちゃ青春した。
そして全国大会当日。
自他ともに認める圧倒的な完成度だと思った。
揃い方も良く、なにより綺麗すぎない。
民謡の泥くささが鮮やかに踊りを彩る。
(画質が粗すぎるが千手観音である)
絶対勝った!!!とは思えなかった。
青森代表の揃い方がめちゃくちゃ凄かったのである
問題は民謡臭さというところをどう捉えるかによる部分だった。
クオリティは互角だったと思う。
問題は審査員が全てだった。
発表である。
「第2位。孝藤まりこ社中!」
またも準優勝。目標が達成できなかった瞬間だった
自然と涙が出た。悔し涙でも、このメンバーで踊る最後の大会だということもあって寂しさの涙でもあった。
だが、今思えば2年連続全国2位はとんでもないと思う。なかなかできる事じゃないと思っている。
だがそんな余韻に浸っている暇も無かった。
何と次の日、野球の大会だったのである。
最終便で羽田から小松に飛び、
朝から試合に向かった。
バスで夜中出発→朝から東京で大会→タクシーで羽田→最終便で小松→帰宅して12時就寝→6時半起きで試合。
小6にしては大ハードである。
そしてその試合に勝ち。
次の試合負けてしまったがしっかり試合に出て2安打放つことができたのは我ながら誇りたいところである。
そしてそこから大会はずっと3位を続けて決勝にどうしても行けないまま、最後の秋大会を迎えた。
準決勝。先発。
小学生は7回制なのだが、
0-0で7回表を迎えた。
近藤少年。6回まで完全試合をしていた。
1アウトからこの日初めての四球。
送りバントで2死2塁
バッター7番
あっという間に追い込む
アウトコース一球外して
右バッターのインコース。
この頃から1番得意なこの球で勝負した。
根っこでどん詰まりだった。
軟式はここがすごく飛ぶ事を
当たった時に思い出した。
ふらふらとあがった打球がファーストの頭を超えて
一塁線上に落ちた。
フェア。
1-0
先制されてしまう。
その次のバッターを3球で三振に仕留め。
流れは完全には渡さない。
その裏。
自分の目の前のバッターが打ち取られ。
試合終了。
終わった。
その後に行われた公式戦ではない大会も目立った成績を残す事なく、小学生の野球は終わりを迎えた。
一時期は上手くいかなかった野球も
勝ちたいという思いは人を一つにした。
卒団式は感動にあふれていた。
あれから15年経った。
今でも
人の温かさを知れるこのチームが
たまらなく好きだ。
いまは人が足りなくて休部している。
でも僕たちがいつか子供ができて野球をやりたいとなったらきっとみんなこのチームをまた始めると思う。
そんな話を本気でしている。
自分達の子供達で富樫クラブをもう一度やろう!
そんな事を言える体験をしたのがこの2年間だった。
今でも集まったり
野球場に応援に来てくれたり
本当に温かくて、大好きな富樫クラブ
そんな素敵なチームで出来たことが
今でも誇りに思えるのだ。
そして少年の人生は中学生編へと突入する。
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如何でしたか?
濃すぎますよね。小学生。笑
それほどまでに恵まれていましたね。その時は全くわかりませんでしたが、今はその有り難みを強く感じることができます。
特に小6は大変でした。精神的に辛くて。
今思えば病気だったんじゃないかってくらい
ひどかったです。
めちゃくちゃ笑顔で爆笑してた5分後、泣いてたりしてましたからね。笑
学校ではうまく隠せていたかなーって思います。
多分バレてなかったんじゃないかな?それだけに先生が皆んなに言っちゃった時は本当にしんどかったです。笑
良かれと思ってやった事なのはわかっていたので、怒りはなかったのですが、なんで???言っていいか聞いてくれても良いやんってずっと思ってました笑
そんな中で野球と日本舞踊を約6年間完遂して、中学生というところに突入していくわけですね。
当時高尾台中は強豪で有名監督が在籍していて非常に期待感が増している中での進学。
日本舞踊の方は、なかなかみんな進学で集まれるタイミングが少なくなってきたので、個人で出る舞台が多くなっていくタイミングでした。
次回中学生編
うすーーーい中学時代でしたので笑
短めですがどうかご期待下さい。
シーズン前に小学生完結したかったのに
今頃になってごめんなさい🙇♂️
近藤俊太郎。