気づくのが遅い人です
世田谷美術館に初めて行った。
アートディレクターの仕事
―大貫卓也と花森安治
大貫卓也の実物ポスターが壁にびっしり。
80年代のとしまえんの広告から現代まで、一貫してシンプルで、ものすごいインパクトがある。
そして何より流行の逆、カウンターを狙うキャッチコピーや写真が胸に刺さる。
こういうポスターは街の中にあることでその違和感がアクセントになって引き付けるものだと思うが、今回はそれが壁一面に何メートルも広がっている。
アイデアの大群に圧倒された。
どの年代のポスターも今見ると新鮮で、かっこよかった。
最近はコンプラのせいかあまり見ないが、昔は時代に逆行するような広告が許されていた、というかむしろそれがかっこいい時代だったのだと思う。
そんな時代に生まれていたら毎日とても楽しかったかもしれない。またはそれを斜に構えて尖らないという尖りに走るかも。
最近は情報過多なネットのせいで、流行のメインだとされるコンテンツもあれば、その逆もあり、そのまた逆もあり、さらにリバイバルという流れもあって
極端にいえば、今の流行なんてあってないようなものじゃないか?と思う。
カウンターが狙いづらい時代。
なんでもありに重きをおいた結果、どんな場所にいてもどんなコンテンツを見ても、同じように感じてしまう。
そう勝手に思っているが、この時代にカウンターがあるのだとすれば「熱量」だと思う。
バズを気にして、ショート動画にとらわれて、1フレームに情報を詰め込みまくって、数字だけで評価される世の中で、みんなうっすら疲れていると思う。
それがどんどん蓄積されていって、飽きようにも飽きられないコンテンツの操作。脳が休めない。
そんなのはスマホの電源を切ればいいだけだが、この時代にそれがどうにも。情報から逃げようがない。
作る側もSNSやショート動画の数字を気にして、流行に合わせて情報を詰め込んでいかないと情報インフレした市場に満足してもらえない。
流行の模倣をせざるを得ない。
それには熱量は感じないし没頭したいと思えない。
それを救ってくれるヒーローをみんな待っている。
バズを気にしない、やりたいことを突き詰めて、みんながそれに没頭してSNSなんて気にしなくなるようなヒーローコンテンツ。
それに近いものは、ライブに行ったり、映画館に行ったり、美術に行ったりして、観て聴いて感じることで見つけられるのかもしれない。
最もフィジカルで、最もプリミティブな行動、、、
そんなことを別に狙ってる訳じゃなく楽しいからやっている。
シンプルにインターネット以外のエンターテインメントをインプットしないとやってらんないのだ。
そんなインプットをしてて、今更気づいたことがある。
エンターテイメントは
それを観て、
良くても悪くても何かを感じて、
自分の中でまとめて、
誰かに感想を話したり、SNSに書いたりして、他の人に刻む。
これが物凄い大事だということ。自分にとっても、作った側にとっても。
これで感動したことを忘れず、自分の中の一部になる。
それに今更気づいた。
そして感動は生もので、
熱量があるうちに人に話すと、その熱量のまま自分の中に吸収される。脳よりも心の方に。
だけど、そういう感動を共有できる人がいなかった。
それでも誰かと話したくなって、卒業以来あってなかった大学の友達に連絡して、無理言って急にカフェに呼んだ。
その友達は俺がねずみ講になったか、借金でもしてるのかと思ったらしい。笑
そう思われてもおかしくない勢いだった。
いままであまり人と話さないで感動を自己完結してきたせいで、コミュニケーションがめんどくさいと思っていた。
だけど最近は人と話したくてしょうがない。
久しぶりの友達にも連絡してみたり、気になっていたアーティストの個展で会って話したり。
何ならコンビニでの数秒の会話にも楽しさを感じる。
人見知りも結構治ったかもしれない。
社会的に生きる人間の、いい部分に気づいた。
最近はそんな感じでエンタメを吸収している。
映画も音楽も、今までと違って感じるようになった。気がする。
あとはアウトプット。
吸収したものを自分なりに解釈して、出せる最大限で表現する。
大事なのは自己満足。
自分が納得できないものはいいとは思えない。
自己満足という最大の熱量を信じればいい。それが一番伝わる。
情報過多な時代に自己満カウンターをぶち込みたい。
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