あるYou Tuberの受け売りだが、「自分の部屋を自分の好きなもので埋め尽くしたい」。好きなものに囲まれるだけで元気や安心感があるらしい。この持論を聞いてから、定期的にコレクション欲が増す。僕は元来そんなコレクション欲はない。音楽はSpotifyで聞くのでCDは買ったことがないし、好きなアイドルのポスターもいい靴もいい服も収集していない。それから、「もっと世の中の道楽に関心を持ちたい」との思いに拍車がかかる。 世の中の道楽の数は計り知れない(野球、読書、音楽、天体観測、旅
今日から、前から予定していた病院の一週間の検査入院が始まる。 今朝、先輩にアドバイスされる。ちょっと萎えた。部活の早朝練でだ。一週間の入院を予定していたのだが、実はこんなことをしている場合ではない。9月末には大会を控えている(もっとも、こんな状況下では参加できない可能性もあるが)。そのために、病院に行くまでの早朝のわずかな時間をも練習にあてていた。アドバイス自体はすごいありがたい。率直にいってくれるのはこっちとしてもすごいありがたい。ただ、その内容が「普段は何気なくできてい
3日くらい投稿が途絶えた気がします。ここ最近、救急車に乗ったり(講義を溜めて)一日ぶっ通しでゲームしたりと慌ただしい毎日でした。今日からまたコツコツ毎日投稿の習慣を再生させていきたい…。 冒頭に書いたように、昨日は活動時間ほぼずっと(13時間くらい)スマホで「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランドSP」をやってしまいました。オンデマンドの講義を消化しなければいけないのでこの行いを後悔すべきなのですが、ここまで時間を忘れて何かに没頭したのは久々だったのでもはや後
さっきYou Tubeサーフィンしていて、「半月を目処に登録者100万人を目指す」という目標を掲げながらもここ数ヶ月投稿が途絶えてしまっているチャンネルを見つけました(いっとき好きでチャンネル登録していたので、最近の様子を伺いに覗きに行った感じ)。その宣言というのも今回が初めてではなく、度重なるものらしいです。 何も僕は批判したいわけではありません。有言実行というのは難しいことだと思います。前に僕もこのnoteで毎日投稿を宣言しましたが、疲労やネタ切れを言い訳にしてよく毎日
シャワーを浴びて、いざ寝ようと思ったときに今日の分のnoteをまだ更新していないことに気づき急遽書き始めました。日中にやっておけば…。 最近読んでいる本の中で、「真の経験」という言葉が印象に残りました。この本についての感想は後日まとめて出すつもりなので、軽めに触れます。 もちろん、このような書き方をするからには僕たちが普段何気なく使っている「経験」という言葉とは違った意味をもっていて、この「真の経験」とは「心を揺さぶられたか」「真剣に取り組んだか」が条件になります。つまり
妥協しない、小さなことにこだわる姿勢というのはとても大切なことなんだろうと思う。 勉強していてわからないことに対して「まあいいや」と見切りをつけてしまったり、やらなければならないことに対して「あとでやろう」と見送ってしまったり、ふんばらなければいけないところで「もう無理…」と諦めてしまったり…。 細部までストイックにこだわり抜く「妥協しない精神」は、僕が今まで生きてきた中で出会った尊敬できる人たちに例外なく当てはまる必要条件の一つだ。 僕はそれはたとえ数日継続できてもそ
中学以来の友だちが、「絶対脈アリだと思うんだけどどう思う??」とどうみても両思いの女の子のことについて相談を持ちかけてきた。普段は落ち着いた様子の彼が人が変わったようにいきいきしていて、生活もうまくいってそうで、幸せそうでなによりだと羨ましく思った。それとは対照的に、バイト面接の不合格の通知が(予想以上に早く)通達されわかってはいたものの萎える僕だった。 今はちょうど正気と絶望の境目に立っているような状態で、変な言い方だが「その気になれば」絶望できるような感じである。 理
最近、「愛」についての本をいろいろ買って読んでいる。 なぜこう背伸びするような項目について興味をもったかというと、もとはと言えば「自己愛」についてだった。去年から今年にかけて「自分の生き様」について驚くくらい自分が向き合ってこなかった、盲点だということに少しづつ気がつき始めて、以前より「自分という人間」の生態について意識するようになった。そこで気にかかったのが「自己愛」である。僕の「自己愛」「自己肯定感」はサインカーブみたいに波打っていて(それもその周期は不規則で、いいとき
先日、西村ひろゆきさんが「自動販売機で滅多に缶ジュースを買わない」とおっしゃっていた切り抜き動画を見ました。確かに、自販よりもコンビニやスーパーのほうがコスパよく買えることが多いです。それによって浮くお金がたとえ数十円だとしても、一年に換算すると無視できない金額になります。僕はそういった(一見)細かいお金については気にすることなく自販でよく飲み物を買っていたのですが、この動画を見て「決してお金だけに通じる話ではない」と反省しました。そういったストイックなまでのこだわりがいろん
はじめに断っておくが、この記事に明確な主旨はない。ただ、今頭の中にある思考、感情の擾乱を書きなぐるだけである。 今日、塾講師のバイトの面接、筆記試験があった。塾講師のバイトの面接はこれが初めてでなく、2週間ほど前にも他の塾で受けていた(なぜ2つ目の塾の面接を受けなければならないかは察して欲しい…)。 今日の出来事について書く前に、前回の初めてのバイトの面接について話しておきたい。初めてのバイトの面接とあって、はじめは緊張して言葉につまずいたり日本語がぎこちなくなったりした
昨日、屋外で部活のトレーニングをしていた。僕が入っている部活はチームスポーツなのだが、なんせこんなご時世だから個人練習しかできない。そのトレーニングもハードなもので、生半可な気持ちで挑むとかなり精神的、肉体的に苦しいものとなる。その日は「あまりやる気が起きない日」ではあったのだが、ある先輩からの受けおりの「目的がない練習の日もあってもいい(やる気がなくてもひとまず練習に向かうことが大切だ、という意味)」というやや脳筋なアイデアに背中を押されて、結局練習に向かった。 案の定、
昨日、大学の天文学の講義の中で「天動説と地動説」の話がありました。 ご存じの通り、昔の学者たちは「太陽は他の惑星は地球の周りを公転していて、地球こそが宇宙の中心である」という天動説を支持していて、その考えはコペルニクスやティコ・ブラーエ、ヨハネス・ケプラー、ガリレオ、ニュートンなどによって地動説が認められるまでの約2000年もの間人々の「真実」であり続けました。 この歴史の境目に存在していた人々にとっては前代未聞の衝撃でしょう。地球が自転や公転でもしたら、窓を開けてドライ
林道を散歩したり、満点の星や満開の桜を見たり、人間のいた形跡がわずかしか残っていない廃墟を訪れたり、自分の昔の思い出を懐かしんだりしたときに、「自分は今生きている」ということを実感する。特に、永い時間の経過を思わせる風景に出くわすと、「人間の命は長くても100年くらいしかななくて、自分はそう長くない(長いことには長いが)うちに死ぬんだな」などと考えたりする。 そういう実感には、憂鬱になるどころか幸せを感じる。 こうした認識に長らく出会わないと、淡々と起き、食べ、寝る。淡々
昨日から大学の授業が始まって、今日の3限に熱力学の対面授業に出席してきた。去年の授業はほとんどオンラインだったし、対面で講義室いったとしてもオリエンテーションとかだったから、実質初めての講義室での講義だった。 簡単な授業のガイダンスが終わったあとに少しだけ授業に入ったのだが、授業スライドの切り替えが速いしマスクをした教授の声も聞きとりにくいしで、後々スライドがオンラインに掲載されるらしいからこの授業では軽く流れだけを理解することに徹した。 その中で印象に残ったのが、「熱力
僕には、付き合って三年目になる彼女がいる。 僕にとって、彼女に対する対抗心、優越感、劣等感は他のものとのそれとは一線を画する別物である。彼女に負けるのがこの上なく悔しい。 この悔しさは必ず「健全な劣等感」でなくてはならない。もし、彼女の喜ばしい功績に対して素直に一緒に喜べず嫉妬を感じたり、彼女の挫折にほくそ笑んだりなんてことは決してあってはならない。それは彼氏を名乗る以前に人間としてクズである。 ここでいう「健全な劣等感」とは、僕が影響を受けた『嫌われる勇気』の中に出て
抱えている悩みの経緯を客観的に紙に書き下ろして自分のおかれた状況を俯瞰することは、その悩みと等身大で向き合うことができるいい方法だと思う。 このとき、何もその悩みを解決しようとしなくてもいい(無論解決できたほうがいいが)。なぜ今漠然と不安を感じているのか、なぜ最近漠然と自信をなくして消極的になっているのか、なぜ最近なんとなく人間不信気味なのかを自分なりに客観的に原因づけて紙面で整理するだけでも、その「漠然とした」「何となく」という曖昧さを排除してそれの本質を見抜くことができ