鬼瓦妖之介土俵入り(時代小説;29,100文字)
<江戸の化政期、とにかく弱い相撲取りの物語です>
其の壱
「おう、どいたっ、どいたっ、どいたどいたどいたどいたっ!」
隅田の川風に立ち向かうがごとき掛け声とともに、両国広小路を駆けて行くのは、自称、神籤の末吉だ。齢は二十五、体は五尺二寸、縞の着物の裾をからげて、短い脚が目まぐるしく繰り出される。
往来の大工も、耳かき売りも薬屋も、危ねえ危ねえ、と道をあけた。
「おうっ、とっ、と」
天水桶の脇からヌッと現れた人影に、どうと突き当たって大きくよろけ、
「馬鹿野郎! どこ見てやがんでい!」
怒鳴りかけた末吉は、相手が身の丈六尺八寸余り、五十貫近くもありそうな大男なのを目にして、
「き、気いつけろい……」
尻すぼみに小声になった。と同時に、二、三歩、後ずさりした。
その末吉に、男は大股で歩み寄る。
「な、なんでいっ」
うろたえながらも、肩いからせて末吉は下がる。男がまた一歩踏み出す。その足も、一尺二、三寸はある代物だ。
「な、なんですかい」
末吉はさらに数歩退き、ひきつったような愛想笑いを浮かべる。大男が寄る。
「な、なんでしようか」
すっかりへっびり腰になった末吉の肩を、八手のような手が掴む。
「痛て、痛てて……。な、何かあっしに、御用でしようか……」
もう半泣き声の末吉は、肩をすくめ首をすくめ、けれどこわごわふり仰げば、相手は体こそ並はずれて大きいが、眉はまばらで肌は白く、ぶよぶよしている。小さな眼は眩しそうに末吉を見下ろし、どうやらまだ、十五、六の子供のようだ。末吉の威勢も回復に向かった。
「な、何ですかい、兄さん?」
「はあ……、そのう……」
「こ、この俺に、何か用かって聞いてんだよ」
「はあ、実は……」
「なんでい、なんでい、こちとら忙しいんでい。 早く用を言いねえ」
力の緩んだ肩の手を、乱暴に振り払った。
「実は、ちいっとばかり、道をお尋ねいたします」
大男は、身を縮めるように頭を下げた。
「なんでい、馬鹿野郎、脅かしやがって。そうならそうと頭から言やあいいじゃねえか」
「はあ……」
「こちとらあ、忙しい体だって言ってるじゃねえか、ぐずぐずするねえ。今もちょいとした野暮用でよ、 根津の権現様までひとっ走りなんでい。おっと、こうしちゃいられねえ、悪いが行くぜ」
と再び裾をからげた末吉の耳に、
「すもうの……」
という言葉が聞こえた。
「何だって、相撲だって? ……お前、相撲とりかい?」
末吉は男の体をじっくり眺めた。
「はあ、いや、いえ、その、あの……」
こめかみに手を当てた大男のロは、しどろもどろになってきた。
「はっきりしねえな。まあいいや、相撲と聞いちゃあ捨ておけねえ。俺の親分、水神の留吉様は、回向院の本場所じゃあ、桟敷仲買いを勤めていなさる御方だ。そのツテで俺、力士衆に知らねえ顔はまずないが、どうも見ねえ面だなあ、お前さんは」
江戸の勧進相撲は寛永年間に始まり、蔵前八幡、芝神明、深川八幡など各所の寺社境内で不定期に興行されていたが、宝暦の頃から本場所は春・冬の年二場所となり、 興行地も、次第に本所の回向院に定まっていった。
「へえ、俺あ、二十日ほど前から大鰯親方の所に厄介になってるけんどが、道がわからんようになって……」
「ほう、それじゃお前は新弟子さんかい。どうりで知らねえはずだあな。大鰯部屋っていやあ緑町の三丁目、津軽様の御屋敷のすぐ先じゃあねえか。よし、俺が案内してやるぜ。ほら、こっちだ」
言うなり末吉は東へ向かって駆け出したが、男は動く気配がない。
「どうしたい? 連れてってやるって言ってんだ。ん? こら、なんとか言え、おい」
大男は、もう一度、ゆっくり頭を下げた。
「信濃の国は、どちらに行けばいいだかね」
消え入るような声であった。
末吉は、改めてその童顔を見上げた。
「お前さん、もう里心がついたのかい。気持ちはわかるがな、ここが我慢のしどころ……」
それを遮るように、男は顔を崩し、
「だめだあ、俺あ、相撲なんて……」
と喚きながら泣き出してしまった。
行き交う人々は足を止め、無遠慮に眺めていく。
「おい、泣くな、みっともねえじゃねえか。……仕方ねえ、話を聞くとしようか。どうせその体だ、腹へってんだろう。俺、急ぎの用があったんだぜ、まったく……。わかった、わかったから泣くなってんだ」
大川端には、両国橋から吾妻橋にかけて十数軒もの茶店が出ていたが、末吉が男を誘ったのは、左岸を百本杭から北へ二丁ほど歩いた所にある、十人も客が入れば満員となるほどの小さな茶店であった。
近くには厩の渡しがあり、対岸の浅草御蔵まで船が出ている。
店の戸口には薄紅色の暖簾がかかり、 白く 《桜茶屋》と染め残してあった。
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