理系としての津田梅子
郵便局に行って幾ばくかのお金を引き出した中に、新札が混じっていた。
ということはこの人は ── 今さらながら ── 樋口一葉に匹敵する人、ということなのでしょう。
この人に対する私の知識はきわめて乏しく、
・明治の初め、女性ばかりの官費留学生の中で一番幼く、
・帰国後、女子英語教育を推進し、
・津田塾大の前身となる英学塾を創設した。
ぐらいしか知らない。
(うーむ。キャリア的に新渡戸稲造と重なるものがある。そういえば新渡戸さんは樋口さんの前任者であった。『五千円札』には何か、教育者・文化人枠のようなものがあるのだろうか?)
ということで、梅子さんのことをざっくり調べてみたのですが、まったく知らなかったことは、
・10年間の留学を終えて帰国し、伊藤(博文)家などの家庭教師や華族女学校の教師を務めた後、24歳で再び留学したこと(2年の予定で、さらに1年半延長した)。
・留学先のブリンマー大学(ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外にあった女子大)で生物学を専攻し、留学3年目で「蛙の発生」に関する研究成果を挙げ、指導教官モーガン博士(後にノーベル生理学・医学賞!)との2者で共著論文を発表した。
── これって凄くないですか?
ブリンマー大学在学時代の写真が残っています。
とても知的かつ魅力的です。こちらをお札に採用するわけには……いかないのでしょうね。やはり、日本で女子塾を創設した後の姿でないと。
この写真、Wikipediaには『ブリンマー大学在学時(1890年〈明治23年〉)』とあるだけですが、このガウンをまとっているということは、卒業写真なのでしょう。
ということは、留学2年目で学士の資格を得て(この時卒業)、延長した3年目は実質大学院生なみの研究生だったのでしょう。
指導教官のモーガン博士は、帰国した梅子宛の手紙の中で、科学者としての梅子を高く評価する言葉を記しているそうです。
ちなみに、ブリンマー大学は、アメリカ合衆国で初めて博士の学位を授与した女子大だということです。
彼女は「蛙の卵の軸の定位に関する研究」を行っていたとのことなので、顕微鏡で卵の変化を観察するといった実験生物学に従事していたのでしょう。
大学で生物学研究の継続を提案されたそうですが、辞退して帰国後、彼女は残りの人生の中でこの『研究生活』を振り返った時にどう考えたのでしょうか。
かつて『虫めづる姫君』が『奇譚』的に描かれた国で女性が実験生物学を続けることなど(少なくとも明治期には)不可能、と彼女自身が考えていたことでしょう。
どこからかお叱りを受けるかもしれませんが、彼女は自身を『理系的』とは思っていなかったような気がします。
きわめて個人的な意見ですが:
生物の観察は ── 卵から胚が発生する過程であっても ── 歴史や文学の流れを追っていくような ── むしろ『文系的』な研究のように思えるのです。
さらに、『実験科学』って、実験設備や材料のようなリソースが必要ですが、何よりも、質のいい『研究テーマ』を考えることが最も重要で、これができる研究者かそうでないかで全てが決まります。
── 彼女は自分をどう思っていたでしょうか? とても興味があります。
津田梅子が亡くなった後、『津田英学塾』は『理科』を増設し、さらに戦後、津田塾大学と改編した後で、数学科と情報科学科を設置しました。
『理系』にも進出したわけですが、『実験科学』には手を付けていない。
……なんとなーく、ではありますが、そこには創設者の『意志』のようなものが感じられるのです。