三丁目の《熊》(短編小説;4400文字)
《熊》を初めて目撃したのは、アタシがスーパーでレジのバイトを始めて2週間が経った頃だ。
レジといっても、野菜や安売り品を除けはバーコードを機械に読み取らせるだけ。立ちっぱなしで足がむくみ、太くなるんじゃないかが心配だけど。
昼食時間前の小さな混雑が去った後、ふと気付くと目の前に、上下逆さになった《顔》があった。
「おい、ねえちゃん、ねえちゃん」
《上下逆さ》がしゃべった。
「はい?」
顔の《上端》は、てらてら光る禿げ頭、《下端》は黒々とした髭モジャ、 ── だから上下逆さの顔に見えたのだ。あごの下だけでなく、口の回りをも取り巻いた、獰猛なまでのこの体毛を、頭の上に移植することができたらどんなにいいだろう。
《上下逆さ》は、どうやら60過ぎの人間のオス、でも、黒い上下のジャージに小太りの体を包んだ姿は、食糧求めて人里におりてきた《熊》だった。
「ねえちゃん、ギョーザくれや、この割引券で」
突き出された太くて短い指には、確かに朝刊の折り込みチラシに付いていた割引クーポン券が5枚、握られている。 ―― 5枚?
しかし、《熊オヤジ》のもう片方の手には、餃子2パックがあるだけ。
「あ、大丈夫ですう、その割引券、1枚で2パックまで使えますからあ」
バーコード・リーダーに餃子パックを読ませてクーポンを1枚だけ受け取ろうとすると、オヤジはギョロリとした眼球で睨み付けている。
「おい、違うだろ、ねえちゃん」
「え?」
「こりゃ、2割引の券だよな」
「ええ、 ── 確かに」
「じゃあ、5枚で10割引じゃねえか」
「ええっ?」
アタシは絶句した。
《熊オヤジ》は、おう、2・5は10だかんな、小学生でもわからあ、と呟きながら、アタシにクーポンを押しつけ、ヤニのついた歯でにんまり笑うと餃子を持ち去ろうとした。
「ちちち、ちょっと待ったあ!」
アタシは叫んだ。
「ん?」
《熊オヤジ》はきょとんと振り返った。
「お、おじさん! その券、餃子1パックに対して1枚しか使えないんですけど!」
「なあにい?」髭の中に埋もれた唇がひん曲がった。
「どこにそんな事、書いてあんだよう?」
アタシはクーポンを眺めてみた。有効期間が今日から3日間である事と、お一人様餃子2パックまで、とあるだけだ。
「ええ? ねえちゃん、どこに書いてあんだよう」
オヤジの顔が間近に迫った。口の周りの剛毛を見ているだけで首や頬がチクチクしてくる。
「どこにって、2割引のチケットは2割引にしか使えないに決まってるでしょ? そんなの常識じゃありませんか!」
負けるもんか、とアタシも怒鳴った。
「ほほう」
オヤジは太い右人差し指を鼻の穴に突っ込んだ。
「ほいじゃ、何か? 2×5が10なのは常識じゃねえってのか? 俺のかけ算が間違ってるのかよう」
うっ、と詰まった時、隣のレジから中島さんがとんで来た。
「すみません、熊倉さん、このコ、新人なんで。ええ、結構です、2割引券5枚で10割引です」
チーフの中島さんがオヤジにぺこぺこ頭を下げるのを、アタシは悔しい思いで見ていた。
「ほうか、新人か。ねえちゃん、まあ、しっかりやんな」
オヤジはアタシの肩をパンパン叩いて出て行った。たった今まで鼻の穴に突っ込んでた指も含めた右の手で、だ。
── 《悪夢》だ!
「へえ、歩美ちゃん、知らなかったの? ──《三丁目の熊》のこと」
《熊オヤジ》が去った後、中島さんはアタシに言った。
「3丁目の川岸に、何本もの大きな木に囲まれた小屋みたいな家があるでしょ? 昔はここいら一番の土地持ちだったらしいけどね。時々あんな風に変な事言ってくるのよ。といってもやくざモンみたいに阿漕なわけでなし、あんまりむきになって相手すんな、って社長も言ってる」
アタシのバイトするスーパー・らくだは大資本のチェーン店でなく、もともと魚屋だった今の社長が自分の店を大きくしたものだ。
**********
それから、《熊》にはちょくちょく遭遇した。
ある時は、リンゴを1個、レジに持ってきた。
「180円です」
そう言うと、
「ねえちゃん、引き算、できんのか?」
太い指に挟んで突き出してきたのは、100円玉が1枚と10円玉が2枚、 ── それだけだった。あ、言い忘れたけど、スーパー・らくだは内税式だ。
「は? リンゴは1個180円です。売り場に書いてありますよ」
「じゃ、300円引く180円はいくらだ?」
「はあ? ……120円、ですけど」
「ほい、ご名答、じゃ」
アタシに120円だけ渡して立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと、待った!」
《熊》は振り向いた。
「リンゴは2個300円、って書いてあるじゃねーか」
「はい?」
確かにそうだ。でも、それは、2個買った場合だ。仮に、 ── 仮に2で割ったとしたって、150円だろ? 何言ってんの、この《熊オヤジ》は?
「このリンゴはな、ねえちゃん、2個目なんだよ」
「はあ?」
── 意味がわからん。
「いいか、このリンゴはなあ、2個300円のふたつのリンゴの、1個目じゃない、2個目なんだよ! 1個目が180円なら、2個目は120円だろ?」
── あきれてモノも言えん。
「じゃあ、その、1個目のリンゴは一体、どこいったんですか?」
無力感にさいなまれつつも、アタシは一応、反撃した。
「馬鹿か、おめえは! ほれ、そこのババアが買っていったじゃねえか」
《熊》は太い人差し指を隣のレジに向けた。頻繁に鼻の穴に突っ込む方の指だ。
確かにそこには、年配のご婦人が、リンゴをひとつ、バスケットに入れていた。
「ざまあ見ろい! おりゃあな、あのババアがリンゴをひとつ籠に入れた後でふたつ目を取ったんだい! ババアのがひとつ目で180円、俺のがふたつ目で、120円じゃねえか! 何度も言わすない!」
勝ち誇ったように髭に縁どられた口をカッと開き、《熊》はのっそり、《ネグラ》へと帰っていった。
── 無力感に徒労感がおぶさってきた。熱が出そうだった。
**********
ある時は、試食コーナーで《熊》を見た。
「焼き肉のタレ」会社の販売員が、小さく切った牛ロース肉をタレに漬け、ホットプレートで焼いていた、その前に《熊》は陣取り、小さなプラスチック皿に載った肉片を、焼ける片端から胃袋に放り込んでいた。
それだけじゃない、《熊》は ── 《ネグラ》から持参したのだろう ── 白米の握り飯を片手に、試食の焼き肉を「おかず」として、完全なる《食事》モードだった。タスキ掛けにした水筒から、時折お茶まで飲んでいた。
かわいそうに、販売員のオバサンは、ほとんど泣いていた。
── いつか《熊》を懲らしめなければ。
アタシの中で、《使命感》がフツフツと沸き上がっていった。
(スーパー・らくだのレジ係を舐めんじゃねーよ)
**********
ある日、チャンスが訪れた。
「ねえちゃん、これで焼き鳥5本、な」
果たして《三丁目の熊》は、片手に蜂の巣ならぬ、パック入りのタレネギマを持ち、もう片手にクーポン券を持っている。
その日、《熊》の好物、焼き鳥のクーポンが折り込み広告に付いていることは調査済みだった。カモネギならぬ、熊ネギマだ。
── てめえの考えることなんざ、お見通しなんだよ!
「ほらよ、ほら」
案の定、《熊》は手に、「10%OFF」と書かれたクーポンの切り抜きをたくさん持っている ── おそらくは、10枚。
チラ、とサービスカウンターの中島チーフに目をやると、小さく首を振ってみせた。
── そうはいかない。会社が許しても、アタシが許さない。
エプロンから電卓を取り出した。
「はい、10%引きのクーポンですね。焼き鳥は600円ですので、まず、クーポンを1枚使って10%引きの540円、2枚目のクーポンを使ってさらに10%引きで486円、3枚目のクーポンを使って437.4円、……」
《熊》の顔つきがこわばってきた。── ざま見ろい!
「……ということで、10枚目で209.20706406円になりまーす。切り上げて、210円いただきまーす」
「く、く、……くぬやろう!」
《熊》がカッと目を見開いた、その時である。
「お客さん! 待って、待ってください! 待ちなさい!」
出口で守衛さんの叫び声がした。── 万引きだ! 店内が大きくざわめいた。
「待ってろ! なあああああ!」
《熊》が、こちらも大声で叫びながら、出口に向かって駆けだしたのだ。
《熊》が走り去った後、レジ台にはネギマ5本入りパックと割引クーポン10枚が残された。アタシは正直、ちょっとホッとしていた。
《熊》の主張を仮に認めたとしても、それは1割引き×10枚=10割引きではなく、《複利方式》のように、値段に0.9を繰り返しかけていく ── つまり、0.9の10乗をかけて計算すべきだ ── それが道理だし、アタシの《作戦》だった。
けれどそれは、あくまでもアタシひとりの考えで、スーパー・らくだの方針ではない。《熊》が騒ぎ出したら、けっこうヤバいかも、と思ってはいた。
《熊》が守衛さんと一緒に戻ってきたのは、それから1時間ほどしてからのことだ。守衛さんと話しながら歩いてくる途中で、何か渡していた。
そして、レジまで戻って来た。アタシは体を固くして構えた。
と、《熊》は財布を取り出し、つり銭トレイに500円玉と100円玉を1個ずつ置き、例の太い指でネギマパックを鷲掴みにして出て行った。
アタシはレシートを渡すのも忘れ、その黒ジャージ上下姿を見送った。ふうっ、と深いため息が出た。
**********
このあとしばらくの間、スーパー・らくだの従業員休憩室は、この時の話題でもちきりだった。
「守衛さんの話ではね……」
中島さんが話してくれた。
万引きをしたのは、ぼろをまとった中年男だったそうだ。
《三丁目の熊》はやたらと足が速く、守衛のお爺さんを簡単に追い越した後、かなり先でその男を捕まえ、何やら話をしている風だったという。
「そういえば、大人のツキノワグマは、本気で走ると時速60キロなんだって!」
アタシが入れた《茶々》は、パート・バイト仲間に無視された。
「……守衛さんがようやく追いつこうかという直前に、《熊》は犯人を逃がしてしまったんだって!」
さらに追いかけようとする守衛さんをさえぎって、《熊》は言ったそうだ。
『なあ、あいつ、腹減って金無かったんだとよ。あいつが盗んだ弁当の金、俺が払うから許してやっちゃあくれねえか』
休憩室での空気は、《熊》って案外いい奴じゃない、という方向に流れ始めた。
でも、アタシはそうは思わない。
この程度のことで《三丁目の熊》を見直すなんてとんでもない、ぜえったいに油断しちゃいけない ── そう思っている。
──《熊》との戦いはまだまだ続く。
<初出:2021年10月28日>
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