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むささび荘の春/上京初日(5,600文字)

長編小説『むささび荘の四季』の冒頭部分【1/2】です。投稿企画[#上京のはなし]で想い起こしました。


 汚れたサンダルやかかとのつぶれたスニーカーが散らばる土間から角型螺旋状に二階に上がる急峻な木造階段の途中で、パンチパーマをかけた唇の厚い男に出くわした。

 僕はとっさに、こういう時は目をそらしたりせず、きちんと挨拶した方がいいのだろう、と判断した。
「こんにちは。今度十三号室に入ることになりました、谷口といいます」
「ほう」男は二段上から僕をじっと見据えた後、ドテラの袖から大きな掌を突き出した。
おれア平沢だ。十一号室たい」
 イントネーションに九州訛りがあるようだった。あわてて出した僕の手を万力のような握力できっちり締め上げた後、よく陽に灼けた男はニッと笑った。
「クニはどこね? ―― どこ落ちたの?」
「は?」
「田舎はどこね、て聞いとるたい」
 古い炬燵こたつ布団のような布地本来の図柄に重ねて染みや汚れの模様で彩られたドテラからは、えたような匂いがわきあがってきた。
「あ、田舎ですか? 名古屋です、けど」
「名古屋ね? ほう」
 男は、それはなかなかのものだとでもいうように、腕を組んで見下ろした。目の玉が大きく突き出ている。
「よし。じゃ、あんた、サンデーの係な。ちょうど一人足りんかったんたい。ええな」
 ガンガンと殴りつけるように僕の肩を叩くと、パンチパーマは階段を下り、二畳ほどある土間をびっしり埋めた履物の中でもひときわ垢に黒ずんだ下駄を選んで出て行った。

 サンデー云々の意味はわからなかった。堅気かたぎの人間の理解を超える世界が、どうやら彼にはあるらしかった。
 階段を上ると、幅一間ほどもあるだろう、やけに広い板張りの廊下が伸び、両側にはベニヤ張りのドアが並んでいる。すぐ右側に、〃11号室〃と書かれたプラスチック板が貼られていた。
(ふむ。ここがドテラパンチの部屋らしい)
 僕はドアの前で額に皺を寄せた。

 ここに来るのは二度目だった。三日前、東京での身元保証人である叔父と共にこのアパート下宿の部屋を下見して話を決めたのだ。アパートの住人は、一人を除いて全員学生という事だった。
(例外である一人があのドテラパンチである事に間違いはないな)僕は大きくうなずいた。
(特に怒らせたりしなければ問題無かろうが、付き合い方は慎重にしよう)
 もう一度、〃サンデー係〃の意味を考えてみた。

 むささび荘は四畳半一間ずつが一階に六部屋、二階に八部屋あり、洗い場とガスコンロ三台から成る共同炊事場と汲み取り便所が玄関の脇にあった。便所の前にはローラー式絞り器のついた古い洗濯機が置かれていた。

 自分の部屋の前に立ち、〃13〃という数字をながめた。
(ふむ。気にする人は気にするだろう。しかし、〃4〃や〃14〃よりましか)
 僕はバックパッカーとギターケースを廊下の床に下ろした。いや待てよ、と左隣のドアの前へ行くと、そこには果たして〃14〃という数字があった。
 おやおやこれは、と不吉な数字を見ていると、十四号室のドアがギイーッと不気味な音と共に開いた。
 思わず後ずさりすると、身長百九十センチ近くはありそうな大男が頭をかがめながら出てきた。野球グローブのような手で、ヤマハ・フォークギターの細いネックを鷲づかみにしている。
「何イ? あんたア」
 巨人は丸い愛嬌のある目をしていた。身長百六十五センチの僕は首を四十五度ほど上げた。
「あの、隣の十三号室に住むことになった、谷口といいます」
「あ、ほう。俺は田崎です。よろしく」
 巨人は幼い子供のように微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「俺は広島出身じゃけんど、あんたアは?」
「名古屋です」
「ほうかあ。近くてええなあ」
「ギター、やるんですか?」
「ああ、少しな」
「僕も持って来たんです」
「へえ、何い?」
「モーリスのW-20です」
「お、なかなかやるな。誰のをやるんね?」
「拓郎とか陽水とか……。ビートルズのバラードも好きですね。田崎さんは?」
「ワシは陽水、アリス、それにNSPやかぐや姫とか、何でもやるけど、日本のモノばかりじゃな。上手くはない。あ、荒井由美っての、知ってるか?」
「いえ、知りません」
「若い女の子なんじゃけどな、ありゃ、歌作るの、うまいでえ。〃ルージュの伝言〃、ちゅうの聞いたことないか? ありゃ、そのうち流行はやるでえ。―― あ、ボッチャン」
 田崎の視線に振り返れば、向いの部屋のドアが二十センチほど開き、モジャモジャの頭と小さな二つの目がこちらをうかがっている。
「そんな所で何しとるんね? 出て来んさい」
 田崎が言うと、モジャモジャは、餌付け後間もないアライグマのようにおそるおそる姿を現した。おどおどした視線を落ち着かなげに動かす。
「こいつは見坊けんぼう、みんなボッチャンって呼んどる。群馬の富岡出身だ。こん人は名古屋から来て十三号室に入ることになった谷口君」
「なな名古屋? へへえ、関西かあ?」
 モジャモジャは高い声を上げた。少しだがどもる癖があるようだった。
「名古屋は関西じゃありません。名古屋は名古屋です」
「そそうかあ? けけど、と東京まで来なくても、かか関西にはいい予備校が沢山あるだろうに」
「はあ? 関西は知らないけど、名古屋には河合塾という大きな予備校があります」
「そそうだろ? とと富岡にも富岡予備校ちうのがあるけどな、はははっきり言って頭のいい奴はあんまり行かんな。おめえもやっぱ、ろ浪人するなら東京でなくちゃと思ったんだろ? ……みみんな最初はそう思うんだ。みんななあ……。そそれが間違いの元なんだよなあ……」
 モジャモジャは腕を組んで下を向き、ブツブツつぶやき始めた。
「こいつの言うこと、あまり気にせんでええよ」田崎が笑いながら優しい目で僕を見た。
「あんた、真面目そうだし、頑張りゃ志望校に行けるさ。東京ではどこ行くんね? 代ゼミかい?」
「いえ」どうやら二人は勘違いをしているらしい事がわかった。
「東大です」
「は?」
「僕、今度大学に入ったんです」
「あ、ほう。もう入ったんね。じゃ、浪人はどこでしたんね?」
「いえ、現役です」
「本当か?」
「はい」
「ひゃあああー」モジャモジャがすっとんきょうな声をあげて壁を叩いた。
「ここここりゃ、前代未聞だな。むむむささび荘に現役の大学生が入るとは。なあ、田崎」
「ああ。……いやな、ここの大家は昔、自分が浪人して苦労したもんで、浪人生しか下宿させない方針だったんよ。今は大学生の方が数が多いくらいなんじゃが、みんな浪人時代からここに住んでた連中ばかりよ」
「そそそれで、大学どこ? とと東大っても、ここには沢山あるからな。な、な、な、田崎。俺たちだって東大だよな、な、な」
 モジャモジャが自嘲気味に言った。
「はあ」僕は不思議な気持ちになった。
「とと東京大学です……」
「しししつこいな、おめえも! だから、東京ナニ大学かって聞いてんだろが!」
 興奮してきたモジャモジャを、その時、田崎が制した。
「あんた、本当に東大か?」
「は、はい」
「理科か、文科か?」
「理科一類です」
「こりゃ、本物だぞ、ボッチャンよ」
 田崎が目を丸くしてモジャモジャを振り向いた。
「え、ええ! ほほ本当か! ほほほう。おめえ、頭がいいんだなあ。と富高とみこうでもなあ、俺の三年前に東大に入った奴が一人いてな、そそいつは頭良かったらしいぞ……。でで伝説が残ってんだ。便所でも英単語覚えてたっつうくらいだかんな……」
 富高とみこうというのは富岡高校の事であるらしかった。僕も自宅トイレの壁に森一郎の〃出る単(名古屋地区では〃シケ単〃と呼ばれていた)〃のページを破って貼り、単語を覚えていたので、これを聞いて尻がこそばゆくなった。
「田崎さんは、大学ですか?」
「ああ」
「どちらですか?」
「言っても、あんたア知らんと思うけんど……、東京経済大学、っちゅう大学じゃ。ボッチャンも同じだ」
「あ、……そうですか」
 僕は本当に知らなかったので、返事に詰まった。
「―― 何年ですか?」
 この問いに、二人は慎重に顔を見合わせてから答えた。
「あんたと同じ、四月から一年生だ」
「はあ……」
 二人は僕よりずっと年長に見えたが、何かその辺りに新参者がいきなり触れるべきではないタブーが横たわっている気配があった。このあたりで話題を変えた方が良さそうだ、と判断した。
「ところで、平沢さん、という人からサンデーの係だとか言われましたが?」
「あ、ほう? 平沢からもう話聞いとるん? ほいでええか? 良かった、良かった、これで一つ増えたな、ボッチャン」
「ああ、良かった、良かった」
 モジャモジャも幸福そうに肯いた。
「それ、何のことですか?」
「こここれだ、これこれ」
 モジャモジャが廊下の突き当りに駆けて行ってバンバン叩いた物を見れば、横向きに置いた段ボール箱にぎっしりと漫画雑誌が詰まっていた。漫画アクション、少年ジャンプ、少年チャンピオンの3種類だった。
「漫画を買う係が決まっとるんよ。俺がジャンプ、ボッチャンがチャンピオン、平沢がアクションだ。ヤツは柔侠伝とルパンが好きでな」
 田崎が言った。
「つまり、学級文庫の様な物ですね」
 それにしても、ドテラパンチを〃平沢〃とか〃奴〃なんて気安く呼んでいいのだろうか ―― 僕は首をひねった。
「あああーっ!」モジャモジャが今度は僕を指さして奇声をあげた後、疑わしそうな目付きで見た。
「だだけど、おめえ、とと東大入るくらいだから、漫画なんか見ねえんじゃねえのか?」
「はあ? いや、この中では、アクションとジャンプは喫茶店で大体毎号見てますけど……」
「けど? けけけど何だ、言ってみろ!」
 モジャモジャが僕の両肩をつかんで激しく揺さぶった。
「か、買うんなら、ビッグコミックがいいな。僕、オリジナルの浮遊はぐれ雲が好きなんです」
「ほほほーっ!」モジャモジャは興奮したように唾を飛ばした。
「あああれがわかるとは、おめえ、ななかなかのもんだなあ!」
 唾は正確に僕の顔に降り注いだ。まあ何であれ、人に認められるのはうれしかったが、少々疲れてもいた。
「じゃあ、そういうことで、よろしく」
 二人に頭を下げて十三号室に入った。天井からは裸電球がぶら下がっているだけの何もない四畳半だった。そこが僕の城だった。
(今日から四年間、この東京で一人、暮らして行くんだ)
 埃と黴の臭いのする部屋の空気を深呼吸した後、荷をほどき始めた。高校時代ワンダーフォーゲル部で使い込んだアルミフレームのバックパッカーが、重い段ボール箱を積んで上京するのにとても役立った。

 寝袋を出していると、ノックの音がした。
 そして僕が出るより早くドアが開き、読売ジャイアンツの帽子をかぶった、痩せて目付きの悪い中年男が立っていた。痩せた男は両手に持った小型の洗剤を二箱、ポンポンと打ちつけながら言った。
「あんちゃん、新入りの学生さんだね?」
 男の指は節くれ立ち、細かな傷がいくつもあった。
「はあ」
「読売とってよ、ヨミウリヨミウリヨミウリ。三カ月でいいからさあ ── 四、五、六の三カ月。今日から六日間はサービスで配達するから。ほらほら、洗剤も二箱付けるぜ」
 男は花王〃トップ〃の小箱を僕の胸に押し付け、部屋に侵入しようとした。
「まだ新聞はどれにするか決めてないから、またにして下さい」
 男の身体を押し出してドアを閉めようとすると、洗剤男は隙間に足を差し入れて来た。
「どうせ、何かとるんだろ。だったら、巨人の事が詳しく書いてある読売新聞がいいぜ。田舎ではテレビで巨人見てたんだろう? やっぱ野球は巨人だよな。四の五の言わねえでここに三つハンコくれよ、ニイチャン。いや、引っ越ししたてでハンコがなけりゃ、拇印でいいんだ」
 男は顔が妙に小さく、足を差し込んで確保した隙間から色黒で歯の出たその顔を今度は押し入れて来る勢いだった。巨人巨人と連呼しながら新しい城に汚い足を入れて来るこの男が、僕にはたまらなく不愉快になってきた。そもそも読売ジャイアンツを巨人、と呼んで特別扱いする連中が我慢ならなかった。
「うるさいなあ。帰って下さいよ。僕は読売ジャイアンツ嫌いなんだ。その足、ひっこめろよ!」
 無理やりドアを閉めようとすると、男は、ケッ、バカヤロ、田舎モン、覚えてろよ、と捨て台詞を残し、廊下を踏み鳴らして去って行った。
 どこで転入を知るのか、あるいはこの時期毎日のように方々のアパートの中をうろついているのか、この日だけであと四人、朝日毎日東京サンケイと、新聞の拡販員が次々部屋を訪れた。根負けしたのと、態度が一番まともだったのとで、結局、毎日新聞を購読することにした。

 その夜、僕は栗原京子に手紙を書いた。
 京子は去年の夏、模擬試験会場で知り合った髪の長い女の子で、名古屋の女子大付属高校に通っていた。でも、京子はエスカレーター式に女子大に進学するのを拒否して、津田塾を目指して勉強していた。
 僕たちは月に二、三度会って喫茶店で長々と話をした。僕は秋にニール・ヤングのハーヴェストやキャロル・キングのタペストリーを彼女に貸した。寒くなると彼女は手編みのマフラーをくれた。差し渡り二メートルを超える大作だった。
 僕はもちろん、もっと頻繁に京子と会いたかったし、もっと深い仲になりたかった。けれど、全ては二人で東京に行ってから始まるのだ、それまでは無理をする事はない、と自分に言い聞かせてもいた。そして今、僕は東京にいる。京子も津田塾に合格した。もう自由だ、何をしたっていいんだ、と思いながらも、僕はひどく抑制した手紙を書いた。僕はまだ、東京での住所を知らず、ひとまずは彼女の両親が住む名古屋の住所宛てに書かねばならなかったからだ。

 そんな風にして、東京での生活は始まった。一九七五年三月の終わりの事だ。


この続きは……


#上京のはなし

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