よにでし読書会 5月31日開催 解説④
今月の書籍:『ガンディーの真実』
開催日:2024年5月31日金曜日 20:00~22:00
ガンディーの真実
著者:間永次郎(はざま・えいじろう)
出版年:2023年
出版社:ちくま新書
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▼▼▼「自分自身になる」▼▼▼
、、、南アフリカで白人にリンチされ、
人種差別の現実を知ったことはガンディーにとって「啓示」でした。
その現実を知ったガンディーは将来、どう生きるかに悩みます。
南アフリカに留学して弁護士資格を持っているガンディーはエリートです。
インドに帰っても良い仕事に就けるでしょうし、
イギリスで働くことだって可能だったでしょう。
しかし、世界が「重い病=人種差別」に罹っているならば、
私は自分の能力と人生を、
この病を取り除くために使わねばならぬのではないか、
と彼は悩んだ末に決断します。
徹夜の懊悩でした。
私はイエスのゲッセマネの園を想起します。
著者が指摘するように、
「自己決定」つまり「自分自身になる」とは、
「進んで苦しみを引き受ける」ところに表れるのではないでしょうか。
ある人がもし、
本来稼げるよりも給料が低かったり、
本来住む場所よりも危険だったり、
本来得られる安心や快適には反するような環境に身を置いてでも、
自らの「使命」と信じる仕事に就いていたり、
生き方を選んでいたりした場合、
それは純粋な「自己決定」と言えるのではないか。
ガンディーの決断も、
「進んで苦しい道を選ぶ」
というところに彼は真理の光を見ていました。
妻はお母さん(私の義母)から、
「道に迷ったら、
楽じゃない方を選びなさい」
と言われたと教えてくれましたが、
この考え方はキリスト教的にも重要だと思います。
世の中ではもちろん、人気はないですが。
▼▼▼本当の自分になることと社会の多様化▼▼▼
、、、価値の多様化と社会の結束、
という二項対立/ジレンマこそ、
現代社会の最大の問題です。
ガンディーはしかし、
「本当の自分」にますますなることで求心力を得、
結果的には社会を結束させました。
社会を分裂させる「本当の自分」と、
社会を結束させる「本当の自分」の違いは何か。
ガンディーの言葉ではそれは、
「アートマン(魂=自己)」の発見ということになる。
つまり「普遍性」に基礎づけられた「本当の自分」か否かが、
多様性の中の一致をもたらす個性化か、
多様性の結果の分裂をもたらす個性化を決める、
ということになるでしょう。
しかしその判断は往々にして、
時間が経ってからしかできなかったりもします。
ガンディーは一時的には分裂をもたらしました。
黙っていれば英国と対峙する必要のなかった貧農を、
非暴力によって蜂起させたわけですから。
マーティン・ルーサー・キングも同じです。
彼が黙っていれば、
これまで通り「黒人を差別することによる平和」は保たれ、
「不要な対立」は避けられたと考える人も当時はいたでしょう。
しかし時間がたつと、
ガンディーやキングの「アートマンの発見」は、
結果的に平和と一致につながるものだったことを、
後の世の我々は知っているわけです。
自らの「個性化」が、
普遍性を持つかどうか、
もっと言えば「愛」に基礎づけられているかが、
私は重要なのかなと思います。
▼▼▼自己中心的利他性▼▼▼
、、、ガンディーという人物は「食えない人」というか、
一面的理解ではとうてい追いつかない多面性を持っています。
彼は「サッティヤーグラハ(真実にしがみつく)」ということを、
結果的には家族を傷つけてまで求めていくことになります。
常人には理解できない論理により、
自らのサッティヤーグラハの度合いに応じて、
宗教対立が深まったり弱まったりする、
みたいな信念のもとに断食や「業」を重ねていく姿に、
家族は常に振り回されます。
というか「誰もついて行けない」。
「暴力的な」自己中心性と著者は書いていますが、
まさに彼の求道心というのは、
暴力性をも秘めているというエピソードが数多いのです。
もしかしたら彼は「自閉症スペクトラム」なところがあったのかなー
なんてことを私は邪推したりするのですが、
じゃあ彼からそういった「毒」を抜くと、
おそらく人類史で最大級の社会変革者としてのガンディーもまた、
存在しないのではないかとも思う。
昨年出版されたウォルター・アイザックソンによる伝記、
『イーロン・マスク』を近頃読みましたが、
イーロン・マスクは明らかにアスペルガー症候群です。
自らで公表しているほどですし、
もう、家族・社員にとっては「地獄のような人間」です。
9割の人が振り落とされる。
今残っている1割の人も、
長期的には振り落とされるのではないかと伝記を読むと思える。
あり得ないほど気分屋だし、
あり得ないほど自己中心的だし、
あり得ないほど御しがたい。
彼に殺意を持っている人は数知れずだと思います。
アイザックソンはそれでも、
マスクからアスペルガー的弊害を除くと、
おそらく「21世紀最大のイノベーター」のマスクもやはり、
いなくなるのだろう、と書いています。
「偉人」のそばにいるのは、
大変だと我々凡人は知る必要があるのです笑。
▼▼▼思考の批判的継承▼▼▼
、、、「思考の批判的継承」が大切だ、と著者は最後に語ります。
ガンディーの思想を継承した20世紀の偉人たちは、
「ガンディーのコピー」になるのではなく、
ガンディーの思想や実践を一度抽象化し、
その中の良きものを継承し、
批判されるべきところは批判する、
という形で継承していった。
これがとても大切で、
ガンディー自身も「自分のコピーになるな」と語っているわけです。
しかし、ガンディー本人には批判されるべき部分が何かが見えていない。
これがガンディーという人の自閉性なのですが、
少なくとも彼には「自分は完全ではない」ことも見えていたし、
自分のやり方がすべてではないことも見えていた。
彼の思想はだから「開かれて」いた。
トーマス・レーマーという人が書いた、
『ヤバい神(原題:隠された神)』という本を、
私はプレミアム放送で紹介しました。
レーマーさんは言います。
実は聖書は、聖書の内部で解釈の変更を行っていると。
レビ記10章に出てくるエピソードをレーマーさんは紹介していますが、
つまり聖書が「自らを常に再解釈・再定義し続けよ」と言っている、
と言えないだろうか、と。
イエスが福音書の律法学者との論争でしていることも、
じっさいは「律法の再解釈」ですよね。
安息日の労働の定義/ローマへの税金の解釈/手を洗って食べること
こういった「神の言葉」を字義通りに解釈するところから、
「神の意図」から考えて結論を出そうよ、
という「再解釈」をイエスはしているわけです。
イエスの弟子であるところのキリスト教徒が、
「再解釈などまかりならん、字義通りだ!」
といっているのは、なんとも滑稽に私には思われます。
イエスのスピリットの継承者として、
私たちはガンディーに対してマンデラがしたように、
その「愛という真理」を現代に現前すべく聖書を読むべきではないか。
私はそう思っています。
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