東京という「のがれの町」
東京に住んで13年が経つ。
自分でも信じられないが、
「人生で最も長く住んだ自治体」が、
「東京都」になってしまった。
本当に信じられない。
僕の父は転勤族だったので、
幼少期から、5年以上ひとつの場所に住む、
ということがほとんどなかった。
例外は7年間住んだ岡山だけだ。
そのときは中高生だった僕たち子どものために、
父は後半、東京に単身赴任していた。
大学で北海道の帯広に6年間住んだ。
就職して愛知県豊橋市に6年間住んだ。
そして今、東京に13年住んでいる。
もう一度言うが、
にわかには信じられない。
僕は東京に住むようになるまで、
いや住み始めてからも、
「東京というのは、
僕が住みたいと思う最後の場所だ」
と公言してきた。
人混みが大キライだし、
自然の中で生活するのが心地よい僕は、
東京という環境を蛇蝎のように嫌っていた。
「何が楽しくてあんな場所で生活しなきゃいけないんだ」と。
しかし、運命というのは面白くて、
そんな東京に、
僕は人生で今のところ最も長く暮らしているのだ。
じゃあ、上記の意見は変わったかというと、
あまり変わっていない。
人間の本質はそうそう変わるもんじゃない。
今でも人混みは見るのさえ嫌いだし、
ビルに囲まれてると、
アスファルトの圧迫感で動悸を覚えることもある。
だから、東京のなかでも、
「なるべく静かな場所」を選んで住むことで、
なんとか正気を保とうとはしている。
間違っても都心部になんて住まない。
お金を積まれてもそれは拒否する。
いろんなところに住んできた僕は思う。
「住めば都」は嘘だ、と。
東京の人混みに関しては、
まったく住んでも都にならない。
いや、東京は住む前から都(=首都)なんだけど笑。
ややこしい。
それでも、と最近、思うのだ。
東京にも良い点がある、と。
それは住環境とか風景とか、
そういったことではない。
「便利さ」でもない。
本当に便利なのは中規模な地方都市だ。
自動車生活の快適さと、
都市の便利さと、
自然の豊かさの、
全部を最高のバランスで保っている。
札幌、福岡、京都、神戸、金沢、仙台、、、
そういった都市が、
多分「住む」という意味で最高のチョイスだろう。
東京の良い点は、
便利さとかそういった次元とは違うところにある。
それは「隠れられる」という良さだ。
先日見た『ミッドナイト・スワン』という映画で、
僕はそれを改めて強く感じた。
この映画は草彅剛さんが、
新宿二丁目のバーで働くゲイの役を熱演していて、
各所で高い評価を得ていて興味を持って鑑賞した。
号泣した。
、、、で、
この映画を観て、
「東京っていいな」と僕は思ったのだ。
というか、東京のような、
1,000万人規模のメガロポリスって、
現代の工業先進国でも数えるほどしかない。
ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、、、
実は、それぐらいじゃなかろうか。
そしてそれらの都市が、
「リベラル」な都市であることに、
僕たちは気づくのだ。
つまり、多様性を許容し、
様々な価値観に対して寛容だ、という点において。
『ある少年の告白』というアメリカの映画がある。
これは実話に基づく映画なんだけど、
主人公で原作者はゲイだ。
彼は南部の保守的な州で育ち、
父親は牧師をしている。
彼は強制的に「LGBT矯正施設」なるものにぶち込まれ、
そこで筆舌に尽くしがたい虐待を味わう。
気が狂う寸前で、彼の主治医と母親が、
父親と矯正施設の狂気を制し、
彼は一命を取り留める。
彼がその後どこで暮らす道を選んだかというと、
ニューヨークだ。
そう、大都市なのだ。
そこで、彼は自分らしく生きられるようになる。
他のLGBTの人々と知り合い、
「自分はひとりでもなければ、
異常でもない」と、
彼はニューヨークで生まれて初めて思えたのだ。
この映画については過去にYouTubeで解説したので、
興味ある方はこちらからどうぞ。
『ミッドナイト・スワン』にも同じ光景がある。
草彅剛演じるゲイの主人公は、
四国の田舎に電話をかけるときは、
「男性」として電話をかける。
カミングアウトできなかったからだ。
田舎では「生きづらさ」は世間に圧殺される。
左利きを右利きに矯正するように、
天然パーマにストパーを当てるように、
「個性的な生き方」は、
ノイズとして「ないこと」にされる。
そんなことは「和を乱す」からだ。
そのような共同体から逃れるようにして、
寒さをしのぐために身を寄せ合うようにして、
東京にはゲイのコミュニティができてきたんだろうな、
ということがこの映画を見ると分かる。
映画の後半で草薙君演じるナギサは、
二丁目の格好で四国の実家を訪れるが、
そこで彼(彼女)は、
「このバケモノ!」と罵倒される。
東京にはそんなことを言う人は誰もいない。
そう、ナギサにとって、
東京は「のがれの町」なのだ。
旧約聖書に「のがれの町」という概念が出て来る。
これは今で言う「過失致死罪」をおかした犯罪者を、
被害者の私的な復讐から守るための町のことだ。
今の法治国家に「私的な復讐」はない。
でも、僕たちの中には、
何らかの理由で、
「生まれた場所では生きていけない」人たちがいる。
それはナギサのようなLGBTかもしれないし、
自分の家を継ぐことを拒否した長男坊かもしれない。
家族に反対されたけどどうしておお笑い芸人になりたい人かもしれないし、
作家や漫画家や声優になる夢を諦めきれない若者かもしれない。
あるいはまた、田舎だとあまりに目立ってしまう、
外国からの移民かもしれないし、
本当に過去に犯罪歴があり、
真面目に社会復帰を果たした、
映画『すばらしき世界』の三上のような人物かもしれない。
そういった、
「日本社会というJIS規格の人材」から外れた、
様々な人々が、
極寒の北風から身を守り、
肩を寄せ合って暖を取るようにして、
ひっそりと暮らしているのが、
東京という町の、
もうひとつの姿でもある。
そう考えると、
東京は、日本で一番、やさしい町なのかもしれない、
と僕には思えてきたのだ。
そう考えた時に、
この13年で初めて、
いや、生まれて初めて、
東京を愛おしいと思えた。
かくいう僕も、
任意団体のNGOを立ち上げ、
個人事業主になったり大学で講義したり教会を助けたり、
いろいろやってるけど、
「JIS規格レンズ」でみたら、
日本人と認識してもらえない、
「規格に合わない不良品」のようなものだ。
リコール対象になる。
多分東京から出たら、
「あそこに住んでるあの人、
いったい何してる人なのかしら。
ヒソヒソ、、、」
と噂話と好奇の対象になるんだろうな、
と自分でも自覚がある。
そう。
僕たちは、
東京という「のがれの町」に隠れているのだ。
「木を隠すなら森に隠せ」
と言う言葉がある。
「人を隠すなら東京(ニューヨーク)に隠せ」ってことだ。
そうやってひっそりと生きている人が、
東京にはいっぱいいる。
そう考えると、
僕は何か優しい気持ちになれる。
「のがれの町」に住むのも、
悪くないと思える。
「生きづらさ」とともに東京で暮らす愛おしいすべての人に捧ぐ。
明日も、この町で生きていこう。