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脱学習の人生学




学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、
なお残っているもの、それこそ教育だ。
 ――――アルバート・アインシュタイン


▼▼▼読書の目的▼▼▼


年間300冊前後、僕は本を読む。
速読はほとんどしない読み方で、
この冊数読む人はあまり多くはないはずだ。

あと、僕はあらゆるジャンルを読む。

サイエンス、社会学、経済学、政治、娯楽小説、エッセイ、
タレント本、ホラー、歴史、神学、キリスト教、仏教、
イスラム教、神道、農業、地質学、環境学、ビジネス書、
伝記、SF、純文学、教育、フェミニズム、性科学、
映画評論、哲学、古典文学、思想、ノンフィクション……

読まないジャンルの本はないんじゃなかろうか。

女性ファッション誌を除く全てのジャンルを読む、
といっても過言ではない。
いやマジで。

「こんなのも読んでるんすね」
と、あらゆるジャンルの人から言われますから。

というのも僕は、
「聖書だけ読んでても聖書は分からない」
と思っていて、
実は聖書をより深く読むために、
年間300冊読んでいると言っても過言ではない。

過言である。

でも、わりと間違っていない。

僕は生きるために読書をするのであり、
僕にとって生きるとは「聖書に生きる」ということであり、
聖書を理解するためには、
先ほど言ったあらゆるジャンルの知識は、
とても不可欠だと考えているからだ。

「年間300冊読まないと聖書は理解できない」
と言っているのではない。

聖書は子どもでも分かる言葉で書かれていて、
英語の聖書に使われる単語なんて、
子どもの英語教育に最適だと言われる。

それはそうなのだけど、
実はそれだけではない。

それは「入り口」の話。

ジャングルより奥深く、
宇宙より広い聖書の真理を、
本当に知ろうとすれば聖書だけ読んでいてもだめだ。

ヘブライ文学のことも、
ギリシャ語という言葉の特性のことも、
ラテン語のことも、教会の歴史のことも、
ローマ帝国の文化のことも知らなければならない。

そして聖書と今の世界との間に橋をかけようとすると、
文学の知識も経済学の知識も政治の知識も、
国際情勢の知識も社会学の知識も、
自然科学の知識も歴史学の知識も、
全部必要になってくる。

聖書だけ読んでいても聖書は分からない、
というのはそういう意味においてだ。

僕は聖書を軽く見ているか?

お前は聖書を軽んじているのか!

そう指摘する誰よりも、
僕は聖書を読んできた自信がある。
ほとんど誰よりも聖書を読み込んだ上で、
もちろん今も読み続けている上で、
それに加えて僕は年間300冊の本を読んでいるのだ。

ナメないでほしい。

じゃあ何のために本を読むのか?

それは「自分が信じてきたことを疑うため」だ。

読書をする最大の理由は、
「世界は自分が考えていたものではなかった!」
と驚くためなのだ。

「キリスト教は自分が考えていたものではなかった」
「信仰とは自分が思っていたものではなかった」
「世界とは自分が思っていたものではなかった」

こういう驚きを求めて僕は本を読む。

専門的な言葉でこれを、
「認知的不協和」と呼ぶ。


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