52歳まであと6年
親を早くに亡くした人は、とても不合理なことですが、
その親と同じぐらいの年齢で
自分も死ぬのではないかという不安を持つようです。
僕の場合も同様で、
父が亡くなった36歳ぐらいまでしか、
自分は生きられないのではないかという思いを、
どこかで抱いていました。
同じような境遇の人に話を聞くと、
自分もそうだったという人が結構います。
――――『死刑について』平野啓一郎 8頁
▼▼▼父の死▼▼▼
僕の父(陣内学)は、
52歳で癌で他界した。
僕と家族はちょっと変わっていて、
日本の一般的な家庭とかなり違う。
かなり違うということに気付いたのは、
わりかし最近のことなのだけど。
まず、父も母も、超「個人主義」だ。
父は「墓を守る家制度」が合理的でないといって、
別に喧嘩したわけでもないのに実家から戸籍を抜いている。
僕が2歳のときに父はアメリカに社会人留学し、
そのとき母が隣人のクリスチャンに触れキリスト教徒になったが、
陣内家は「仏教徒」でも「キリスト教徒」でもなく、
「合理主義者の集まり」だった。
「法要」という記憶がほとんど皆無だ。
祖父・祖母の葬式の記憶はあるが、
家族で墓参りに行ったという記憶はほぼない。
父が「墓はただの石」という思想の持ち主だったからだと思われる。
お正月やクリスマスや誕生日など、
「特別な日」というのが陣内家にはなく、
いわゆる「祝祭」はひとつもなかった。
お雑煮ぐらいは食べたかもしれないが、
正月も普段通りの生活が続いた。
正月の挨拶もなかった。
あと「個人主義」というのもあった。
「お前はお前、俺は俺」という暗黙の了解があり、
家族が互いに生き方について口出しするのは、
「格好悪い」というコンセンサス(共通認識)があった。
大学5年のときだったと思う。
父がまだ生きていた頃、
「就職先ってどういうところが良いと思う?」
みたいなことを柄にもなく父に聞いたことがある。
「自分らしくないな」と半分思いながら。
父は言った。
「お前の人生なんだからお前が自分で決めろ。
俺も大学生のころそうやって決めた」と。
そりゃそうだろうな、と僕は思った。
「誰かに決めてもらって後から文句言う」
という甘えを拒絶する家族だった。
それから半年後ぐらいに、
父は癌になり、
入院して2か月でこの世を去った。
戸籍を抜いていて、
「陣内家の墓」みたいなものを継ぐのを拒絶していた父の骨は、
母と祖母に分骨された。
父は「海にでも蒔いてくれ」というようなことを言ってた、
と聞いた気がするが、その骨はまだ母が暮らす蒲郡の部屋にある。
もう半分は正式ではないかたちで、
多分仏教徒の祖母が祖父の墓に入れたと思われるが、
それについて僕は何の報告も受けていない。
だから「父の墓」はこの世にない。
心の中にあるから、ま、いっか、と僕は思っている。
そんな家族だからか、
僕は父の「命日」を知らない。
2001年の2月ということだけは覚えているけれど、
一周忌みたいなものを一度もしていないから、
翌年には忘れていた。
特に覚えている必要も(僕はさしあたり)感じていない。
父が死んだことと、それがどんな死だったかということ、
つまりは「父が生きた意味」を胸に刻んでいれば、
それで十分だと思っているからだ。
ちなみに父の葬式以来、
父を除く家族4人がそろったのは、
父の死後20年近くしてからじゃなかろうか。
2人、3人の組み合わせはいくらでもある。
愛知に行けば母と会うし、
僕は弟と年に二回ぐらい飲みに行く。
弟も姉と母の3人で子どもを交えて食事したり、
母が東京の弟の家に来ていたことを後で知ったりする。
基本的に陣内家は、
互いの消息を伝え合わない。
「便りがないのは良い知らせ」というスタンスで、
別に誰が何をしていてもその人の勝手だ、
と思っているし、弟が愛知に行っていたことを、
愛知に行くと母づてに聞く、
みたいな感じで、お互いに消息を共有しない。
当然、「家族のグループLINE」もない。
家族がLINEをしているかどうかも、そもそも知らない。
あと、母と僕はガラケーだし。
……だからといって、
家族が互いを想い合ってはいない、
ということではまったくない。
とても気にかけているし、
もし誰かがピンチに陥ったら、
身体張って助けよう、
身を投げ出してでもケアしよう、
という覚悟を互いに持っている。
ほら、普通じゃないでしょ。
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