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自分語りと世界語りと希望づくりと
わたしたちの読書行為の底には
「過去とつながりたい」という願いがある。
そして文章を綴ろうとするときには
「未来へつながりたい」という想いがある。
――――『自家製 文章読本』 井上ひさし
▼▼▼刺激と反応▼▼▼
引き続き北海道にいる。
普段と違う人に会い、
普段と違う食べ物を食べ、
普段と違う風景を見、
普段と違う空気に触れ、
普段と違う町並みを歩く。
生活リズムが変わるので、
普段と違う音声コンテンツを聞いたり、
普段と違うドラマをタブレットで見たりもする。
東京にいるときと、
脳内を流れていく「情報の流路」が変わる。
刺激と反応。
刺激が変わると反応は変わる。
そしてそれを「記述」する。
果たして僕は世界を記述しているのか、
それとも自分を記述しているのか、
その両方なのだろうな、と思う。
2008年に公務員を辞めて宣教の働きに飛び込んだ。
祈り支援してくださる方々に活動報告をするために、
この16年間、ずっと「言語化」を続けてきた。
自分の経験、学んだこと、考えていること、
脳内をガラス張りにして「閲覧可能」にするように、
僕はあらゆることを言語化してきた。
最も難しかったのはもちろん、
自分の鬱の闘病記録だった。
1行を書くのに1時間かかった。
1段落書くと2、3日休まねばならなかった。
でも、これを書くことから逃げたら、
僕は「宣教の旅路としての鬱病」という、
皆さんから支援されている働きを
全うすることにならないと思った。
あの鬱病闘病の言語化を経て、
僕はほとんどあらゆることを「記述」するのに、
あまり苦労しなくなった。
言語化能力というのか、
言語運用能力というのか、
そういうのが、ある閾値を超えた。
もちろん僕より文章が巧い人も、
言語化能力が高い人も、
世界にはごまんといるだろう。
これを読んでいるあなたがそうである確率も、
かなりあるのではないだろうか。
とはいえ僕は「言語化する義務を自分に課す」
という意味で、けっこう特異な立場にはいる。
これほどの分量の文章をコンスタントに書く人は、
文章を生業にしている人以外では、
あまりいないのではないかとすら思う。
そんなわけで僕は、
五感からの刺激を「言語化」することを、
ずっと続けている。
東京にいるときは五感からの刺激は多くない。
僕は「アウトプットの鬼」であるのと同時に、
「ルーティーン化の鬼」でもあるので、
だいたい毎日、同じ時間に同じ行動をしている。
映画『イコライザー』のマッコールさんや、
『PERFECT DAYS』の平山が、
僕の中にも棲んでいるのだ。
東京にいるときの「刺激」はだから、
筋トレの話か子どもとの会話、
妻と過ごした時間や、
年に数回ある、友人と食事した話、
みたいになってくる。
そんな話はもう飽きた、
と言われるかもなーと思うので、
抽象論も交えながらそれでも書く。
書くことは僕の「働き」の一部だと思ってるので。
そうやって書いていると、
「あぁ、自分はこんなことを考えてたんだ」
という発見がある。
土を掘っていたら珍しい根菜類に出会うように、
書くことで僕は自分でも驚くような発見をする。
東京にいるときはだから、
書く行為は自分の内面を掘り進める行為に近い。
モグラのように深く深く、地下に入って行く。
深海に潜っていく。
すると面白いものが見つかる。
北海道にいると、あるいは世界のいろんな場所に行くと、
僕は深く地下に入ることをやめる。
というより、書くために地下に潜る必要がなくなる。
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