よにでし読書会 5月31日開催 解説③
今月の書籍:『ガンディーの真実』
開催日:2024年5月31日金曜日 20:00~22:00
ガンディーの真実
著者:間永次郎(はざま・えいじろう)
出版年:2023年
出版社:ちくま新書
リンク:
▼▼▼サッティーヤグラハはストライキと何が違うのか▼▼▼
、、、サッティーヤグラハと、
ストライキ/ボイコットの違いは何か。
それは「非暴力」の理由だとガンディーは理解していました。
ストライキ/ボイコットは、消極的に非暴力なのだけど、
サッティヤーグラハは積極的に非暴力なのです。
抑圧者に対して異議申し立てをする。
ノーガードで、非武装で。
抑圧者は被抑圧者を逮捕するかもしれない。
警棒で殴るかもしれない。
ときには戦車でひき殺すかもしれない。
しかし、「殴られているその姿」こそが、
魂の力を解き放ち社会を変えるのだとガンディーは主張したのです。
ガンディーらの独立運動が「塩の行進」や「糸紡ぎ」であって、
武装勢力によるクーデターでなかったことはじっさい、
インドの独立を持続可能たらしめました。
もしガンディーの運動が軍事クーデターだったならば、
おそらく「ガンディー政権」を潰すための、
傀儡政権をイギリス政府は擁立し兵器を流し、
「首のすげ替え」が起こっただけでしょう。
かつてニカラグアに米国がしたように。
ガンディーの抵抗が非暴力だったからこそ、
インドの独立は達成されました。
サッティヤーグラハの力が証明されたのです。
また、万が一自分の主張が間違っていた場合、
すでに殴られているから罰を受けている。
正しかったとしても社会を変えられるから正解、
間違っていたら制裁を受けるので正解、
というロジックも面白いですよね。
▼▼▼完全な非暴力>非暴力的暴力>偽善的無抵抗▼▼▼
、、、「非暴力的暴力」っていう言葉も面白いですよね。
1.完全な非暴力
2.非暴力的暴力
3.偽善的無抵抗
前回の解説でも紹介しましたが、
ガンディーは1を最も良いもの、
そして3を最も駄目なもの、
と思っていました。
構造的差別がそこに存在する場合、
最も勇気がある人は非暴力の抵抗を選ぶ。
次に勇気がある人は暴力によってでも抵抗する。
最も勇気がない人が抵抗せずに現状を肯定する。
よく「無投票は自民党への一票と同じ」と言われますが、
構造的差別があるときに、
「黙っていること=中立」ではありません。
「黙っていること」は、差別する側に加担することと同じなのです。
この部分を分かっていない人が、
冷笑主義的に「どっちもどっちだよね」と自分を超越的な位置に置き、
運動している人の運動を無意味だと言ったりします。
しかしその人は実際には、
「何も言わないこと」によって暴力に加担しているのと同じ事だ、
とガンディーは看破したのです。
さらに、「目的を達成すること」が必ずしも大事ではない、
というのも面白いですよね。
「真理への絶対的な信頼」がガンディーにはありました。
これは限りなくキリスト教徒の神への帰依の感覚に近いものでした。
だから、もし運動した結果、
社会が変わらなくても、「真実にしがみついた」
ということ自体に価値があると考えたのです。
ここがガンディーの「プラグマティスト」とは違う魅力です。
これもまた、キリスト教の殉教や従順の精神と似ています。
私たちは愛します。
その結果何も変わらないかもしれない。
その結果、何の実も見ないかもしれない。
それでも、愛するのだ。
報いは「向こう側」にちゃんとあるのだから。
ヘブル書11章とかの考え方に近いですね。
▼▼▼ヒンドゥトゥヴァとは▼▼▼
、、、私は2008年に4か月インドに滞在しました。
そのときにインドの方から「ヒンドゥトゥヴァ」と、
RSSについては初めて教えてもらいました。
滞在中、オリッサ州でヒンドゥー教の暴徒がキリスト教の教会を焼き討ちにする、
という集団虐殺事件がありました。
生きたまま焼かれて生き延びた少女や、
燃やされた聖書や十字架が、
インドの一般の雑誌のカヴァーになっていたりして、
当時はかなりひどい状況でした。
国際社会もそれなりに注目していましたが、
日本ではあまり大々的には触れられなかった印象です。
一番ひどかったのはその二年前、2006年のグジュラト州で起きた、
ヒンドゥー原理主義の武装勢力によるモスク襲撃で、
数百人が犠牲になり、当時グジュラト州知事だった、
現在の首相・モディ氏はブッシュ政権のアメリカから、
「入国禁止措置」を受けます。
彼が原理主義勢力に対して手厳しい制裁をしなかったので、
それが「人道にもとる」とされたためです。
それもそのはずで、
現在のモディ首相はヒンドゥー原理主義の出身で、
ヒンドゥー政策を進めるBJPの政治家、
つまりゴリゴリのヒンドゥトゥヴァ思想の人だからです。
現在、インドではキリスト教を含む他宗教(ヒンドゥー教以外)の宗教者や信者は、
様々な意味で「締め付け」に遭っていると、
2019年の再訪のときにも多く聞かされました。
その「ヒンドゥトゥヴァ」とガンディーの関係について、
本書で言及されていたので私は興味を引かれたのです。
引用箇所に書かれているように、
ガンディーはヒンドゥー原理主義勢力に殺害されました。
その理由は、ガンディーが「ダブルスタンダード」だったのでは、
というヒンドゥー原理主義者たちの怒りでした。
ガンディーはヒンドゥー教徒が警察に対して蜂起したときは、
警察を利するような非暴力をヒンドゥー教徒に対して説き、
逆にイスラム教徒がヒンドゥー教徒を襲うと、
そのときはイスラムを手厳しく批判しなかった。
イスラームにこそ非暴力を説いて、
厳しく批判するべきななんじゃないのか!
というのがRSSの不満で、
結局はガンディーはそのRSSの凶弾に倒れることになります。
これは本当に難しい問題で、
私の分析で合ってるかどうか分かりません。
(間違ってたら指摘してください)
でも敢えてたとえるとしたら、
アメリカで言うとガンディーって、
リンカーンのような「連邦主義者」なんですよね。
なので国内の多民族・多文化・他宗教・多言語をまとめる必要があった。
30以上の言語があり複数民族、宗教が混在するインド亜大陸をひとつにまとめる、
というのはそういうことです。
しかし、ヒンドゥトゥヴァ思想って、
アメリカで言うと共和党のトランプのような思想に近い。
「WASP(白人・アングロサクソン・南部・プロテスタント)」は、
インドで言うとヒンドゥー教徒の北インド系ってことになる。
ちなみに北インド系のインド人には、
アーリア人の血が入っていると信じられていて、
この人たちが「ブラフマン」という、
上位カーストの多くを占めていました。
イギリスがグリップしたのもこの地域およびカーストですね。
ところがガンディーは多民族/他宗教のインドをまとめる必要があったので、
「パワーバランス」を考えて、
敢えてイスラムを「擁護」するように見える行動を取った。
これが国粋主義者には我慢ならなかった、
という構図ではないかと思われます。
話を戻すと、
サーヴァルカルのヒンドゥー原理主義と、
武装してでもそれを成し遂げるという「意志」は、
現代インドでモディ首相とBJPという形で「実現」しています。
私は個人的にあまりインドのためにならないだろうなと観ていますし、
現地のキリスト教徒もそれを憂慮しています。
単純に「ヒンドゥー教=異教=悪」とは私はまったく思いませんし、
「インドが全部キリスト教の国になるべきだ!」
みたいなのは原理主義・帝国主義・文化侵略主義であり、
思想的には皮肉にもヒンドゥトゥヴァ的な「思い上がり」だと思っていますが、
それでもモディ首相の国家ハンドリングは、
宗教うんぬん以前に民主主義や人権を破壊するようなところがあるので、
(抽象度が高い意味の「キリスト教的」にも)マズいと思っています。
余談ですが安倍元首相は、
モディ首相とえらく意気投合したそうです。
……まぁ、「そういうこと」ですよね。
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