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ライヴに行くのを忘れた
1.
気づいたのは夕方の電車の中だ。
Googleカレンダーから通知メールが届く。見た瞬間、今日ライヴのチケットを買っていたことに気づく。
時計を見ると、18時20分。開演時間は17時。
別の約束を入れていた私は、自らの息が止まる錯覚をそこで知る。
高架線の上を走る電車の外の景色は、今日も綺麗だ。
音楽に夢中になったのは中学生の頃で、きっとその前から好きだったが、ライヴという儀礼は今に至るまで慣れない。
端的にいうと、あまり好きになれない。
多くの人が「最高だった」というようなライヴが全然いいと思えなかった経験もしばしばある。
なぜかは、うまく説明できない。
バンド活動をやめた理由の一つは、ライヴハウスが好きになれなかったことだ。
自分の居場所だと思えなかった。
そんな私にしては珍しく、2月22日土曜日に行われるライヴを本気で楽しみにしていた。
多分、ここ数年で一番楽しみなライヴだった。
イースタンユースとリーガルリリーの対バン。
極東最前線という、イースタンユースが数十年にわたって続けている対バンイベントの105回目。
この組み合わせは、自分のために行われるようなものだった。
自分だけのために、と感じていたのが本当のところだ。
どちらも、自分が心を許したことのあるバンドであるが、何より組み合わせがよかった。
かたや、メガネをかけた50過ぎのオッサンが血管はち切れそうなほどに叫ぶ泥臭い三人組。かたや、結成10年を過ぎたとはいえ、未だ幼さの残る表情と声であどけなく歌う女性だけのバンド。
一見真逆というほど違って見えるのだが、二つのバンドは共有しているものが多いと思っていた。彼らの間には見えない紐帯があると感じた。そして、その紐帯は、私が最も大事にしている何かに、とてもよく似てした。
絶対に、観に行かねばならないと思っていた。
2.
手帳に手書きでスケジュールを書いていたし、スマートフォンのスケジュールにも予定を入力していた。
前々日には、チケット発券を確認するメールも来ていた。
前日まで、ライヴがあることを忘れていなかったはずだ。
なのに、当日になって、完全に失念していた。
本気で驚いたし、客観的に見たら意味がわからないことをやってると即座に思った。
チケットはソールドアウトしていたから、私が買わなければ行けた一人の人には申し訳ないことをしたと考える。
だけど、本当に申し訳ないと思っているのは、二つのバンドに対してだ。特にリーガルリリーの人たちに対してだ。
なんだか私は、彼らに対して「裏切り」を働いた気がしてならない。
なんで失念していたかと自問すれば、「忙しかったから」と答えるしかない。
木曜と金曜の日中は会社で研修があって、木曜の夜は研修の飲み会があった。
金曜の夜は、別の会合があった。
だから、いつもは金曜日までにある程度進めてる、土曜日のYouTube収録の準備が全くできなかった。
さらに、金曜までに、今度行う予定のイベントの準備も進めなくちゃいけなかったし、その日締切の原稿もあった。
21日の金曜の夜、寝たのは午前4時だった。
遡れば、火曜も水曜も一日中予定があった。
端的に、今週の私には余裕がなかった。
22日(土)は11時に起きてからは、ずっとYouTube収録のために動いていた。
収録を終えて、別の予定のために電車に乗った。
Googleカレンダーのメールを見るまで、ライヴがあったのを一日中失念していた。
いくら忙しかったとはいえ、ここ数年で一番の高揚感を持って迎えたライヴをすっぽかすなんて、とても信じられなかった。
でも、実際に起きた。
一体、これはなんなんだろう。
今は、23日の午前4時30分。
ざわめきが止まらずに、うまく寝れなかった。
気持ちの整理がつかないまま、画面とキーボードに向かっている。
数日前に、右目頭の裏にできたデキモノが痛い。
肩も重くなってきた。
3.
イースタンユースのことを考えると思い出す1日がある。
19歳の大学の夏休み、家族以外の誰とも会わない日々が二週間続いた。
当時の私はうまく人と関係を築くことができず、学校で不本意に浮いていた。
その時はサークルにも所属しておらず、バイトもしていなかったから、無為の時間が続いた。
人に会いたかったけど、数少ない友人は部活が忙しそうだった。
たしか、一人で公営のプールに行ってみたり、図書館に行ったりしたはずだ。
だけど、泳ぐのも本を読むのも、惨めさを消すのに役立たなかった。
眠れない日が訪れた。
その日は何をしても眠れなかった。
あっという間に、空が明るくなった。
なんでそうしたかよく覚えていないが、イースタンユースの「夜明けの歌」をヘッドフォンで聴き出した。
その時の私の心情をそのままトレースしたかのような歌だった。
そのまんますぎて恥ずかしいので、歌詞は引用しない。
この曲のイントロのギターの音は、他で聴いたことがない。
弦の一本一本にピックが触れたのが聞き取れる、少し時間をかけたストローク。
鳴った瞬間に、藍色の深い、夜が明ける直前の空気が見える。
へばりついたすべての醜さを、優しさで包みこむ。
一体、これは何なんだろう。
私は、たしか物理的に涙を流していたはずだ。
翌日、意を決して忙しそうな友人に「会ってくれ」と連絡した。
「逃げても逃げても逃げても朝が来る」なら、逃げていても仕方ないと思った。
イースタンユースのアルバムだと、「夜明けの歌」が入っている『感受性応答セヨ』と『DON QUIJOTE 』というアルバムが一番好きだ。
なぜなら19歳から20歳にかけての私の日々の支えになったからだと、いうほかない。
当時はライヴにも行って、大いに興奮したし、励まされた覚えがある。
苦手だったライヴ全般の中でも、イースタンユースのライヴはとても良いものだった。
その頃の記憶と結びついているせいか、ある時期からイースタンユースを聴かなくなった。
自分の支えになったということは、支えが不要になったから離れたということかもしれない。気恥ずかしさもあったかもしれない。
今となっては理由はわからない。
ただ、言葉の意味が強すぎて無意味な表現が少ないことは、今でも違和感として残っている。
「エモ」や「ハードコア」の文脈で語られやすいバンドだと思うけど、いま彼らの音楽を聴くと、「ダブ」のエッセンスを持っていることが大事だと気づく。
ずっと低音で位置を変えながら蠢き続けるベースと、スネアの抜けがやたらといいドラム。その音の組み合わせは、ダブ・ミュージックからやってきたとしか思えない。
ギターの音が厚さで塗りつぶすスタイルよりも、空間を包み込むアンビエンスに近いのも、ダブの印象を与える。
その音の作りと、メロディと歌唱の力を、ずっと信頼している。
最後に彼らのライヴを観たのは2018年のフジロックだった。
その時も素晴らしいと思った。
単独ライヴもまた観たいと思っていたけど、気づいたら時間がすぎてしまっていた。
考えていることは違うけど、時々顔を合わせて違いを再認識したい人のような存在だった。
今回が、再会の好機だと思っていた。
4.
本当に思い入れのある日本のミュージシャンを上げると、
スピッツ、スーパーカー、アート・スクール、アンディモリ、リーガル・リリーの名が浮かぶ。あとは羊文学とプラスティック・トゥリーか。
我ながら、なんと趣味が狭いのかと思う。
全部バンドで、ギターの音が大きくて、日本語の使い方に特徴がある。
ざっくりと「オルタナ」と言ってもいいだろう。
ヒップホップや電子音楽やジャズやR&Bや現代クラシックやブルースを聴いても、結局好きなのはずっとバンドの音楽だ。
リーガル・リリーには、スピッツやアンディモリの要素が入り込んでいる。
同世代で女性ボーカルでバンド形態も近いから、羊文学と比較されやすい。
実際、近いところは大いにあると思う。
ずっと好きだったバンドと共通点が多いから、リーガル・リリーを好きになるのは極めて自然だった。
さっきこの文章を書き始める前、保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』をなんとなくペラペラとめくった。そこには、このように書かれていた。
音楽であれ、小説であれ、表現というものは、たえず何か逸脱したものを含んでいないと、やがて滅んでいく。表現とは本質的にそういうものだ。
この文章において「逸脱したもの」として書かれるのは、マイルス・デイヴィスやギル・エヴァンスのジャズだ。たしかに、マイルスの音楽からは私も「逸脱」を感じ取れる。
翻って、リーガル・リリーの音楽に「逸脱」はあるだろうか。
一聴すれば、どこかで聴いたことのあるバンドサウンドである。
音色もコード進行もリズムパターンも楽曲構造も、よくあるバンド音楽の枠内に収まっている。
だから、サウンドの新鮮さを大事だとする友人には、リーガル・リリーの音楽は勧めにくい。
私がリーガル・リリーを聴き続けるのは、自分の馴染む音に居直っているだけなのかもしれないと思ったこともある。
でも、やはり彼女たちは逸脱しているのかもしれない。
最初にリーガル・リリーを聴いた時。それは2019年、今はもうない南池袋のラーメン屋の店内で流れた曲だった。shazamすると、「魔女」という曲名が表示された。
君の嫌いな相槌も
君の嫌いな解釈も
君の嫌いな表情を
全部 全部 壊したいよ
君の嫌いな友達も
君の嫌いな政治家も
君の嫌いな人間を
全部 全部 壊したいよ
3拍子から4拍子にリズムが変わって、ドラムの速度が速くなって歌が連射される。
暴力的な願望をのせた言葉を、あまりにあどけない、幼い声が歌う。
声と言葉のアンバランスが、耳の記憶に残り続けた。
「嫌いな」と「解釈」「相槌」との間の距離が、すごくいいと思った。
君は音楽を中途半端にやめた
君は音楽を中途半端に食べ残す
ころしたよ、ころしたよ
空と街の交差した空中から
1つ、1つ、1つと降って
さあ、僕らは帰ろうか。
夜のGOLD TRAIN
思い出したくない駅に着いた
誰のためにここで息をしたのか
何の変哲もないバンドソングは、たかはしほのかさんの罪を知らない子供の如き声と、罪悪と諦念と状況描写がぐちゃぐちゃに混じる言葉によって、退屈から逸脱する。何度ても聴きたくなる音楽になる。
2022年に出た『Cとし生けるもの』、2024年に出た『kirin』。この2枚のアルバムで、言葉は遠くへ越えた。それは、貧しさと絶望を淡々と記すようなリリックだった。
たかはしほのかという人は、貧しさや戦争がなんでこの世にあるのか、その世界でなんで自分が生きているのかを、ずっと不思議に思っている人だ。自分の存在自体が罪悪ではないかと疑っている人だ。
歌を聴いていればそう感じざるを得ない。
そして、貧しさや戦争への感情を、意味で伝えてはいけない、無意味に近い描写で描かなくてはいけない。自分の言葉がスローガンになってはいけない。
そうした倫理を持っている人だ。
意味と無意味のどちらにも落ちないという点で、たかはしほのかという作詞家は草野マサムネの系譜にあると、私は思っている(ということを以前書いた以下の文章で軽く触れた)。
この人は、私が見ているのと似た世界を、私より繊細に伝えることができる。
そのような羨望と信頼を、持つようになった。
たかはしさんのことを、直接会ったことはないけど、誰よりも大切な友人のひとりと思うようになっていた。
少女はとってもお腹を空かせていて
少年はだれかに夢中だった
ホームレスのおじさんはレーシックできるお金持ってない
野球選手は割れないように優しく
流されてく命の流れ
この街の癖なんだね
唸るような土砂降りの中
きみの声だけ疑った
ぼくという名の きみという名の
隔てたガラス 割れた音
何度も何度も打ち寄せてくる波
ぼくら ぼくら 物語の中の絶望の中へ
リーガルリリーの、どうにもならない状況を描写するという姿勢は、イースタンユースと重なる部分でもある。
午前十一時。
青梅街道は何時にも増して緩い
春は死んでいる
血を流している
柔らかい青の下で
霧になって消えていった面影達
後尾灯の暗い光
恥ずかしくて 情けなくて うつむく度
保身の鎧を継ぎ足して来た
後悔と諦念。が溢れるにもかかわらず、何も諦めきれない日々。
自らの誇れない七転八倒を、醜い有様を、離れた距離から眺める。
その距離の取り方が、彼ら二組の間の紐帯となるだろう。
そして、それは私との紐帯にもなる。
彼らが一緒に集まる場に、居合わせなければいけなかった。
5.
私はどうしても、「諦念」や「挫折」の表現に弱いみたいだ。好きなものに語ろうとすると、いつもそういう言葉が出てくる。
ただ、それが何らかの強度を持っている時だけ好きだと感じる。
強度とは単純に、演奏や音響に確かな気持ちよさがあることだと思う。
文章でも、呪文のような強さが合った上で、諦めを描いてほしい。
私は、諦めている人間が好きなわけじゃない。
彼らのライヴに行きたかったのに行き忘れたという話も、諦念や後悔の感情を、多分に含むものだから、それはそれで彼らに合っているようにも思う。
そんな風に、自分を誤魔化している。
「ライヴ」というものに関して、私は「友人と会うこと」以上の楽しみを抱いてないんだと、最近思った。
知り合いでもない幾人かのミュージシャンは、自分にとって「友達」に近しい。
「音楽の演奏を聴く」行為の中でしか、生まれない友情がたぶんある。
それは一般的な友人関係ではないのだが、それでも「友情」と呼ぶほかない。
それ故か、私はライヴ行為に「逸脱」を多分求めてない。
少なくとも、一聴して「これは枠を外れている」と思うような分かりやすい新鮮さを求めていない。
久しぶりに会った友達と話す時の、安心と興奮が入り混じった、信頼に基づいたあの感覚。
それだけを、本当は求めている。
同時に、実際の友達のライヴだから観たいわけでもない。
よく会う友人のライヴがよくなかったことも沢山ある。
ライヴを観ているその時間の中に、友情が生まれる。その感覚だけが好きだ。
そういう意味で、自分にとってのライヴは「芸術」でも「ショー」でもない。
大きい会場でのライヴは、大抵とても苦手だ。
なんで今回のライヴに行かなきゃいけないと思っていて、行けなかったことをずっと悔やんでいるかというと、貴重なものを見逃したとか、お金を無駄にしてしまったとか、そういうことではない。
大好きな友人との約束を、忘れてしまったようなものだからだ。
仕事の忙しさに、大事にしたい友達との予定を忘れた。
その間違い故に、自分を責めている。
古い知り合いとの再会の機会を、友人と互いの生存を確かめあい互いの存在を祝福する機会を、不意にしてしまった。
一日だけ時間を戻したいという気持ちはまだある。それもそのうち忘れるかもしれないけど、今はある。外を通る車の音を聞いている。