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「加害者」と「被害者」を使いたくない、という話。

「加害者」と「被害者」は、日常的に使用される日本語になっている。
しかし、「加害者」と「被害者」という言い方は、何かしら問題を含んでいる。そのようにずっと感じている。多くの人がこの二つの言葉をさも自然なもののように使っているのが、ものすごく不自然に思える。嫌な予感がして気持ち悪い、と感触している。

害を加えたものと害を被ったものという二分法は、日常的には無理がある。というか、この二つは容易に反転しうるし、両立も容易である。
「加害者」「被害者」は法律用語なのかと思ったら、どうやら法律上では「加害者」という言葉はあまり使わず、多くの場合は「行為者」と名指すらしい。まぁWikipediaで軽く調べただけなので、確かなことは全くわからない。

小川哲『ゲームの王国』は、カンボジアの近現代史、主に虐殺の歴史をめぐって書かれた小説だが、主役の一人である女性ソリヤは幼い時に育ての親を殺されており、成長してからは恩人である人物の虐殺に加担している。彼女が被害者か加害者かと言われると、両方というしかない。複数の人間の視点を通した時、「誰かに害を加えた」と「誰かから害を被った」は、どんな人物に対してもほぼ確実に両立するだろう。二者の間でも、両立と反転は十分あり得る。両立と反転が容易に可能な二つの概念を、対立項として簡単に使用していいものなのだろうか。

「害」とは何か?という定義も曖昧である。議論をするとき、「害」とは?のコンセンサスが取れていない限り、話はどこにも進めないと思うが、そこで総意を得るのはかなりの努力を要する。「加害者」「被害者」の二極で議論するのは、無理があるとしか言いようがない。「被害者」という言葉で、人の感情を安らな方向へ動かすことも、尊厳を高めることもできそうにない。自分に限った話では、どんなに誰かから痛みを与えられたとしても、「被害者」とは絶対に呼ばれたくない。それはなぜか。よくわからないが、自分の痛みと立場を抽象化したラベルで決められるのが許せない、という回答はパッと出てくる。「加害者」「被害者」の二語の抽象性には、何かしらの事態が発生した時の複雑さを、あらかじめ消去する効果がある。そんな言葉を人に与えること自体が、陰湿な加虐性を有している。

法律用語で使われる「行為者」という言葉は、しっくりくるように思った。「行為者」は中立的に響く。そこに価値判断のベトベトはない。善悪の判断を一旦保留して、「行いを為した」という事実を指摘した呼び方になる。行為を受けた者は、「被行為者」と呼べる。ここにも、「被害者」という単語にほぼ必然的にこめられてしまう、押し付けがましい憐憫は認められない。「行為者」と「被行為者」が最適かはわからないが、少なくともマシな選択肢ではある。それだけで十分だろう。

「行為者」と「被行為者」を流通させて、不必要で身勝手な価値判断を言語運用から少しずつ取り除くこと。それは、日本語話者としての私の願いとして存在している。

この件に関してはずっと考えていたけど説得的に語れる気がしないし調査も不十分だから書いてなかった。書きたくなったから書いた。

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