Sign Magazineの年末ベストで段落分けされてなかったのが悔しいので段落分けして自分のnoteにもアップしてみるの巻

昨年度(2022年)末にSign Magazineの年末ベストのレビュワーとして参加したんですが、段落分けが反映されていませんでした。というか2021年の時も反映されていなかったので「あ、来年は気をつけなきゃ」と思ったはずなのにすっかり忘れてました・・・。 

段落分けって実は重要で、あるとないとで読み心地がだいぶ変わります。Sign Magazineの更新が昨年末で終了してしまったので次がありません。ちょっと悔しいなと思っていたので、勝手に段落したものをこちらにアップします。読みにくい文章だな〜と思って飛ばしちゃった人は(特にThe 1975のレビューとか長いから余計に読みにくいと思う)こちらで読んでいただけると嬉しかったりします。どっちも読むと面白いはず。

最後のSign Magってことなので、「活気づけたろ」思ってちょっとした遊びをしてみました。まぁ読んでの通りです。「こいつ、大丈夫なのか?」って心配そうに感想書いている人が2,3名ほどいらして、ちょっと微笑みました。

Saba / Few Good Things


「俺は虫けらだ。地面で踏みにじられている」。かつて”Let Down”においてそう歌ったのはレディオヘッドのトム・ヨークだ。『OK Computer』まではリリックに描いていた虫けらの自意識を、『KID A』『Amnesiac』の双子アルバムでは音色の中に拡散させた。"Pulk/Pull Revolving Doors“における重層的なリズムトラックは、落葉と虫けらを同時に踏みしめたときの音だった。社会構造と同調圧力につぶされた魂が残す、誇り高くか弱いメッセージだった。

 Saba『Few Good Things』における多層構造の律動音は、"Pulk/Pull Revolving Doors“のそれを思わせる。黒人コミュニティにおけるレディオヘッドの影響力はケンドリック・ラマーのサンプリングやロバート・グラスパーのカバーからも知られている。Sabaを擁するPivot Gangは、より密やかにその影響を覗かせる。リラックスしたメロウネスの中でも、虫けらの潰れた音が聞こえる。友と家族が、虫けらのように若くして死んだ。Pivot GangのSqueakは、祖母の家で叔父と一緒に銃殺された。27歳のSabaは、年老いた気分の中だ。いいことなんてなにもない。”One Way or Every N***a With a Budget“でSabaが語りかける。このストリートは一本道だ。死に向かうしかない。だけど俺は空を飛んで、複数の道を見つける。酷薄な世界で、数少ない良いものを俺はみつける。あいつらは一本道で、虫けらのように死んだ。教会の屋根を裂いたハリケーンは中にいる全員を殺した。シスターたちは育てる金がないから子供を殺した。9月にマリファナをはじめたあいつは、6月にはヘロインに浸ってた。感情的にはならない。虫に感情はない。ただただやつらのメッセージを聞き取って、リズムを産み出していく。虫けらのリズムを生きていく。複数の道は、レクイエムのなかにしか見つからない。虫けらのリズムを生きていく。


Burna Boy / Love, Damini


 俺は虫けらだ。俺たちは虫けらだ。ナイジェリア出身のイボ人チヌア・アチェベが1957年発表の小説『崩れ行く絆(Things Fall Apart)』で書いたように、部族の尊厳は西洋国家の植民地政策によって蹂躙された。1960年の独立後にもナイジェリアでは67年に内戦(ビアフラ戦争)がおこり、約150万人の生命が犠牲となった。現在、アフリカ大陸の中でも経済大国として成長著しいナイジェリアは、損なわれた尊厳に苦しんだ歴史を抱えている。その蓄積された歴史は、近代にアフリカ大陸全体を覆った痛みの雨を象徴している。もちろん、日本に住む者には痛みは文献を通した抽象的なものとしてしか伝わらないが。

 1991年ナイジェリア生まれのバーナ・ボーイことダミニ・エブノルワ・オグルは、アフリカ大陸の音楽の歴史を繋げようとする。2019年のアルバムでは自らを”African Giant”と名乗り、前作『Twice As Tall』の冒頭ではセネガルの英雄、ユッスー・ンドゥールを召喚した。本作『Love, Damini』においては、1960年から現在まで活動する南アフリカの伝説的コーラスグループ、レディスミス・ブラック・マンバーゾが冒頭と終幕にアカペラを披露する。フェラ・クティのマネージャーを母に持つバーナ・ボーイは、損なわれたアフリカン・ピープルの尊厳を奪い返すかのように、各地の音楽家と手を取って音を鳴らす。「ハッピーバースデー、ダミニ」の祝福に乗せて、「アパルトヘイトのように心が裂かれていた」と歌いだし、個人の痛みと歴史の痛みに橋を架けんとする。無重力のパーカッションが軽薄なほど快楽的に響く中で、暗い恥と苦い誇りを混ぜていく。英語とヨルバ語を行き来するビジンなフロウは、アフロビーツとアマピアノが前景化し、Nyege Nyege Tapesがウガンダの臭気を伝えるアフリカ音楽の現状において、一つのハブとして機能した。バーナ・ボーイを通して、極東の島民はアフリカ大陸の蓄積へと接近する。

 その蓄積は単純ではない。アフリカン・アメリカンのライター、Jessica Karissaはピッチフォークのレビューで、”Wild Dreams”の最後の一ライン「思い出そう、マーティン・ルーサー・キングは夢を持っていたが、最後には撃たれたことを(Remember,Martin Luther King had a dream and then he got shot)」に対して、「まったくもって無礼だ」と非難している。しかし、その悲観的かつ慎重なリリックはどこから来るのだろうか。”Wild Dreams”は、豪華なオーケストレーションとは裏腹に、悪い夢に追われ続ける感覚を歌っている。バーナ・ボーイの悪夢はどこからやってくるのか。キング牧師との距離は何に由来するのか。私たちは、そうした暗い謎から出発しなければいけない。


Denzel Curry / Melt My Eyez See Your Future


 俺は虫けらだ。デンゼル・カリーは目を閉じたまま笑っていた。レイ・ミステリオのようにかぶったマスケラ。仮面の奥は盲目の虫けらだ。溶けた目の中で未来を見てた。目が見えないまま歩き続けた。黒いジョン・ウェインを気取って歩き続けた。時代劇と西部劇の相互影響に感化されて歩き続けた。ロバート・グラスパーのルバートする鍵盤に乗って歩き続けた。鋭い痛みが麻痺するまで歩き続けた。最悪から最悪へと歩き続けた。

 続けること、続けることがすべてだ。息継ぎなしで塗りつぶす16小節。寡黙な声が饒舌を繰り返す。ライムの襞からビバップが聞こえる。カウボーイの諦念が急流を切り抜ける。”John Wayne”はDJスクリューのように遅く重たく、“Angelz”ではケリー・リギンスがダビーなブレイクビーツを叩く。”Sanjuro”はトラップビートで、“Zatoichi”ではドラムンベース。あらゆるリズムを溶かしながら、デンゼル・カリーは歩き続ける。

 ファック・ベンツ、ファック・ポルシェ。高級車を呪って、スターウォーズの戦闘機(X-Wing)に自らを託す。それはただのオタク趣味ではない。マチズモが命取りになる黒人社会において、ナードであることは防衛手段だ。マックは27歳になれず、パックは26歳になれず、ビギーは25歳になれなかった。カリーは生き延びるため、三船敏郎と勝新太郎とジョン・ウェインとスパイク・スピーゲルのキメラとなって歩き続ける。虫けらの死骸の山をすりぬけて歩き続ける。最悪から最悪へと歩を進める。快楽と災厄は同時にやってくる。天国と地獄はあまりに似ていて区別がつかない。時代のサインは未来の道しるべになってはくれない。そして今日も、我々は歩き続ける。FUCK THE WORLD、いざ、最悪の方へ!


Awich / Queendom


  俺は虫けらだ。私は虫けらだ。Awichほど、今の日本で「物語」を引き受けているミュージシャンはいない。女性であること、沖縄出身であること、アフリカンアメリカンの夫を殺されたシングルマザーであること。自らの出自と経験をストーリーラインの中で語り抜けるAwichは、「物語」の力を徹底的に利用しているようにもみえるし、実際「物語」によって彼女のプロップスは急速に上がっていっただろう。しかし、そのストーリーテリングには一つのねじれがある。Awichが引き受けるのはすべて、「物語」を奪われた人々、社会構造のなかで存在を無視された人々の物語だ。30代のシングルマザーの生活が、基地と隣り合う沖縄の生活がどれほど黙殺されているか。誰にも見守られないことほど、人の生にとって悲惨なことはない。

 シンセが跳ね、ハイハットが左右に飛び交う中、Awichは巻き舌気味に声を吐く。「体に絡みつくRespect」。悲惨から抜け出す物語を、揺るがない喉で冷たく響かせる。“口に出して”では、性的挑発者としての女性を冷たく演じる。「舐めてもないのに何イってんの?」。そのIcyなフロウが、物語の過剰な拡散を防ぐ。

 私たちは物語なしに生きていけない。自身の物語を、他者に共有しないではいられない。だが同時に、物語を他者に利用されるわけにはいかない。無視された物語を語りつつ、熱に浮かれた共感を拒むこと。Awichが『Queendom』で行っているのは、物語という魔物を愛するための、実践的なエデュケーションに他ならない。


Earl Sweatshirt / SICK!


 俺は虫けらだ。人間になんかなりたくなかった。質量で比べれば、人類より昆虫類の総量の方が重いのをお前は知っているか。環境危機や人新世などというが、人類が滅ぼせるのは人類自身くらいだ。せいぜい哺乳類が関の山。虫けらに人は勝てない。人間には、雑魚の自覚が足りない。

 なのに俺は人間になってしまった。人間になんかなりたくなかった。「ある朝、虫は夢から覚めると、自分がベッドの上で巨大なグレゴール・ザムザになっていることに気づいた」。そんな悲惨な変身物語の主人公が俺だ。寒さと暑さに素肌では耐えられない、運動能力の乏しい生き物たちに囲まれて生きてる。奴らがりんごを齧りながら笑ってる。罪悪感と優越感をすり替えて暮らしてる。いやだ。一匹の虫に戻りたい。雑魚の一員でいたくない。今日も人間の体に閉じ込められて日が暮れる。そのりんごを投げて、俺の命を奪ってくれればいいのに。病んでるのは俺じゃない。虫の体を奪われたのは俺のせいじゃない。人間の言葉が体に絡みつく。だから俺は今日も言葉を吐き捨てる。言葉をすべて吐き捨てて、そのすべてを踏みつける。吐き捨てた言葉は何もなかったように、ふたたび体に絡みつく。

 アール・スウェットシャツは、虫けらである権利を奪われた人間のようにささやく。知性という名の愚かさと共に生きる日々を呪う。その声は俺の耳の周りで、虫の死体のように積み重なっていく。


Big Thief / Dragon New Warm Mountain I Believe in You


 俺は虫けらだ。夜の森で声を鳴らしている。11月18日渋谷Spotify O-EastでのBig Thief来日公演は、昆虫とオケラがポリフォニーを奏でるようなアンビエント風のサウンドから始まった。ドラムスのジェームズ・クリヴチェニアがマイクと逆再生エフェクトを使って音を発しているようだが、一人で鳴らせる音響だとは到底思えない。ただならぬ気配の中で、エイドリアン・レンカ―が”Dried Roses”の三拍子をアコースティックギターで弾き始める。彼女の声は、木々の間を吹き抜ける風のように震えている。

 Big Thiefのライヴは、安定と不安定が同時に伝わる奇妙な体験だった。演奏と音像のコントロールはほとんど完璧に聞こえる。しかし、それは平等に音を重ねていくようなアンサンブルではない。エイドリアン・レンカ―が苛烈な存在感を放っており、彼女の気分が、ライヴ全体の流れを定めていた。ツアー中も毎回セットリストは変わっているが、おそらくその場の気まぐれで曲が決まっている。ライヴ中、レンカ―の精神の震えが音から伝わってくるかのようで、それはそれは不安定で緊迫した気配だった。彼女のステージングやボーカリゼーションやギタータッチは、例えばカート・コバーンやジム・モリソンを思わせる、強引な繊細さを帯びていた。

 しかしその不安定は、社会で浮き沈みする人間心理の不安定ではない。人間的な粘りつく感情の産物ではない。想起されるのはむしろ、熱帯雨林の天気のような変わりやすさだ。晴れ間が突如豪雨へ変わり、静かな時を強風が吹き飛ばす。それは、不安定だが安定している。自然現象にとって、秩序と混沌は同じものを意味する。安定と不安定の並存するライヴを体験した後では、『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』は、人工と自然、秩序と混沌の二分法を無化する音として響く。ザ・バンドとニール・ヤングのアメリカーナを引き継ぎながら、フィールド・レコーディングとエンジニアリングの蓄積を学びながら作られた、アーシーかつ都会的なフォーク・ロック。抑制された8ビートで進む”Simulation Swarm”では、蛍光灯の持続低音から(With the drone of fluorescence)幽玄なささやきを受け取る。人間と虫と雲とギターと蛍光灯は、製造元を辿ればすべて自然界の産物である。人工と自然を一体化するその凶暴な同質性は、人間的感情の粘着性を弾いて、虫けらと蛍光灯のオーケストレーションとして、聴く者の感性を包み込む。


The 1975 / Being Funny In A Foreign Language


 「俺は虫けらだ。だれにも相手にされない」。「俺はキングでクイーンだ。だれもが賞賛を惜しまない」。二つの自己認識の極端な乖離を受け入れると同時に、マティ・ヒーリーはポップとインディの二項対立をなぎ倒す。マイケル・ジャクソンにしろザ・スミスにしろ、テイラー・スウィフトにしろビーバドゥービーにしろロマンス以上のロマンスを鳴らすからこそそれは人を惹きつけるのであり、ポップとインディの線引きはロマンスの前では消え去る。ロマンスとは、肥大したエゴと無償の愛が出会う場所である。虫けらの自己嫌悪と王族の自己顕示が消失する瞬間を目指して、マティ・ヒーリーは今日も強烈な自己愛を音楽へ投げ込む。

 デビュー時から前作『Notes on a Conditional Form』までをThe 1975自身が「Music For Cars」期と呼んでいるのはブライアン・イーノがアンビエント・ミュージックを考案したアルバム『Ambient1:Music For Airports』に自らの作品を重ねるからであり、彼らが「エモ」を鳴らしていた頃のバンド名が「Drive Like I Do」であるからもわかる通りにThe 1975にとっての「Car」とは「エモ」の象徴である。「Music For Cars」とはだから、「エモ」と「アンビエント」の重ねあわせをコンセプトとしたものに他ならず、事実そのサウンドは「エモ」のメロディーとボーカリゼーションを「アンビエント」の柔らかい音響によって鳴らすものだった。80’s ポップ的なサウンド・メイキングも、シンディ・ローパーやa-haがエモのルーツにあったからこそ成し得た再解釈である。そして、「エモ」を「青春」と、「アンビエント」を「環境」と翻訳したとするなら、「Music For Cars」期のThe 1975は青春を取り巻く環境として、つまりユースのサウンドトラックに徹するバンドとして存在していた。

 今作『Being Funny in A Foreign Language』ジャケットの燃える車の上で男が踊るモノクロの写真はだから、「Music For Cars」期からの離脱を意味しているように思える。たしかに、11曲43分というコンパクトな構成といい、”Part of The Band”や“When We Are Together”のチェンバーポップ風アレンジといい、ある種の成熟を思わせる特徴も見いだせる。“The 1975”のリリックは17歳のリスナーに向けた成熟したメッセージともとれる。しかしながら、それはロマンスからの離脱を意味しない。むしろロマンスへと突き進む厚顔無恥な開き直りこそが、本作の正体である。青春から屈折と恥じらいを抜きとった魂を、私たちは感じ取る。「最高の紳士が手に銃を持って愛を探している(A supreme gentleman with a gun in his hand lookin’ for somebody to love)」というリリックはどこまでもアイロニックな響きを持ちながら、残酷なまでのロマンスへの希求を止めない。“All I Need To Hear”や”Wintering”のそっけないバンドサウンドが見せるのは、濃密に透きとおったロマンスの香りである。エモとアンビエントに火をつけた後に、最高密度の透明さがそこには残った。『Being Funny in A Foreign Language』とは利己と利他の消失点に向かう運動の別名であり、その恥知らずなほどロマンティックなロマンスに、私たちの心は踊り続ける。


Kendrick Lamar / Mr.Morale & The Big Steppers


 俺は虫けらだ。80億人の一人にすぎない。アメリカ屈指のラップスターとなった”救世主(savior)”が、一人の人間に、一匹の虫に戻る物語。『Mr.Morale & Big Steppers』を乱暴に要約すれば、そのように形容できる。拝金主義とアテンションエコノミーを嫌悪し、セックス依存症に悩み、黒人男性のマッチョイズムと距離をとる一人の男。黒人社会におけるトランスジェンダーと家庭内暴力の現実を、具体的な描写と静かなフロウから浮かび上げる一人の語り部。過剰なエゴと期待から身をかわし、トキシックな歴史を解放するストーリーは、時にお行儀よいものにも響くだろう。ウォークカルチャーへの反省が広がりつつある現状では、つまらない態度にも映るだろう。今年、「実はケンドリック好きじゃないんだよね」という軽口を聞く機会が何度もあった。それは、リベラルに安心できる物語を丁寧に語る姿勢に鈍重さを覚えての発言だと想像するが、ケンドリックを易々と否定してしまう言葉こそが、むしろ時流に乗った安心感に浸っている。だが、ケンドリックを道徳的に持ち上げる言葉も、共感のバブルに守られた安全地帯での判断に過ぎない。『Mr.Morale & Big Steppers』とは、言葉を操るすべての人間が、「道徳教師かヤクザか(=Mr.MoraleかBig Steppersか)」の二択でしか生きようとしない現状を描いた戯画である。その滑稽画は、作品そのものからではなく、作品とリスナーの間で浮かび上がった。聞き手との関係に応じて常に姿を変えていくものがポップミュージックであることを、本作を巡る反応が証明している。


以上8枚でした。順番はSign Magのランキング順です。ちなみに、自分が書くレビューが何位になるかは事前に知らされていません。

「俺は虫けらだ」が浮かんだのはアール・スウェットシャツのレビューが最初で、電車乗ってる時に(遅筆の自分にしては珍しく)一気に文章が書けて、そこで「もしや全部同じ文章から書けるのでは?」と思いつきました。失敗したら嫌なのでやるかどうかは迷いましたが、こういう悪ふざけが田中宗一郎へのオマージュになるだろうと思って決断しました。文章の中にもちょくちょくSign Magを意識した引用しています(プリンスの歌詞とか)。私なりの別れの挨拶のつもりです。

個人ベストの内容ともつながっているので、こちらも併せて読んでみてください。→

というわけで、小林さん田中さん、10年間お疲れ様でした。
今後ともよろしくお願いします〜

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