ステータスと健常発達
デイヴィッド・マークス『STATUS & CULTURE――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』は、私には非常に面白い本だった。読む前から予感していたのだが、ほとんど私のために書かれている本だと思った。
人からの評価・評判の集積「ステータス」を獲得することに、普遍的に人は惹かれている/捕らわれている。「カルチャー」は、「ステータス」獲得争いを巡って作られていく。そのことを、ありとあらゆる地域・種類の文化から証明していく一冊。マッシュルームカットが嘲笑すべきものだったところからクールなものに転じたザ・ビートルズの例から始まるように、特にファッションと音楽への言及が多いが、文学や建築などの例も多い。薄々感じていたステータスからの逃れ難さを説得的に論じた書。という風にまとめられるだろう。
本書が主張しているのは「ステータス」の逃れ難さである。集団は、集団であるだけで「ステータス」を必然的に生み出す。ステータスなき集団は存在しない。それは一種の諦念だ。ステータスは階級を生み出すから、階級のない共同体は存在しない、ということになる。
実践的に考えれば、ステータスは集団・社会によって異なる、という点は重要に思える。ある集団でステータスを築いても、別の集団ではそのステータスは通用しない。人が複数の共同体を移動しない理由も説明がつく。多くの人は、ステータスを複数持つのは難しい(と考える)からだ。複数のステータスを持つことの方が楽しいし楽と感じる私は、その点で得をしているのかもしれない。
『STATUS & CULTURE』を読む前には、兼本 浩祐『普通という異常 健常発達という病』という本を読んだ。こちらも面白かったのだが、『STATUS & CULTURE』とつなげて考えると余計に面白かった。ADHDやASDを「病」とするなら、普通とされる状態も「病」になるはずだと著者は書く。普通=健常発達の特徴として、本書では「他人の評価(いいね)に執着する」と「いじわるをする」の二つが挙げられており、「普通」だけの社会がどれだけの地獄かを読む者に想起させる。「褒美をもらうために勉強できるかどうか」という報酬系の違いとして定型と非定型の差を示したのは面白い。健常発達では、褒美を与え続けていれば自然と勉強するようになる。非定型発達では、勉強と褒美をつなげず、褒美だけを欲し続ける。勉強する前者は周囲のために自分の好みを見失う傾向があり、後者は自分の本質的好みに従えるが社会からの命令を聞けない。双方の良し悪しがよくでている。「作品」を「作品」そのものとして受け取るべし、という考え方が芸術や批評の言説のなかにはあるが、「作品」そのものを受け取る、という態度は本書に照らすと非定型発達的なものと言えるだろう。
健常発達と非定型発達は、グラデーションになっており、一人の人のなかでも混ざっている。自分は、健常発達的要素と非定型発達的要素を双方強く抱えている(ように自分では思える)ので、「グラデーション」は実感としてわかる。だから両者を単純に二分割で考えるべきではないのだが、興味深いのは、健常発達の特徴はかなり「ステータス」を求める心的機能と重なっているところだ。他人の評価を気にして、いじわるなコミュニケーションで差異化を図る。この心理と行動は、『STATUS & CULTURE』で繰り返し描かれているものだろう。『普通という異常 健常発達という病』は、医学・精神医学から、「ステータス」を考えた本と捉えられる。
もし「ステータス」が健常発達的コミュニケーションの集積であるなら、非定型発達的な機能(報酬系の直接性だけを信じる機能)へとモードを映し、「ステータス」から逃れることも可能ではないか。問題として発生するのは、健常発達と非定型発達のモードの切り替えを、どれほどできるかという点だろう。たとえば、さきほど小川哲『ゲームの王国』を読んでいるときに面白くてどんどん読んでいたい、すべてのやるべき仕事を無視して読んでいたと思ったが、この感覚は非定型発達的だと思う。逆に、フランス語の学習と「蓮實重彦論」の深堀りのためにフローベールの原文と蓮實重彦訳を日々書き連ねていく、というほぼ毎日続けている作業は、健常発達的だと思う。かなり遠い報酬系めがけてやっている作業だからだ。ツイッターは、非定型発達と健常発達のよくないマリアージュという感じがする。報酬系の速さと遅さが見えにくいからだ。二つのモードを、どのように使い分けるか。どうすれば使い分けられるのか。その辺りはよくわかっていない。
ステータスから根本的に人は逃れられないが、一時的な退避はできる。だから、ステータスを求める/求めないの切り替えをなるべく行う、というのが一つの解法になる。もう一つに、ステータスを求めない非定型発達的な時間を、ステータスにも活用する、という方法がある。実は、私はずっと後者を実践していたように思える。ステータスに役立つし、ステータスの関係ないところで歓びをくれる。そうした体験の蓄積があれば、どちらかを犠牲にすることもない。早い話がいいとこどりだが、私は大して考えずに半ば無意識的な行動習慣としていた。それがいいかどうかよくわからなかったが、論理を与えるられて楽になった。双方にメリットを与えるものの最たるものが、読書だと思う。映画もそうだろう。音楽は、少し微妙だ。
つまるところ、私は自分が「ステータス」の虜だと認めざるをえない。と同時に、「ステータス」など心底くだらないと感じている。この矛盾は一体なんなのか、どうすればいいのかと考えていたが、『STATUS & CULTURE』と『普通という異常』の併読は、一定の解を与えてくれたように思う。