『ナミビアの砂漠』と新たな同調性
映画と賭博
『ナミビアの砂漠』は、新たな同調性についての映画である。映画とは、賭博である。したがって、『ナミビアの砂漠』という映画は、新たな同調性を頼りに投げられたサイコロ以外の何物でもない。以下、証明する。
まずは楽な方から行く。映画とは賭博である。賭博とは、「人間が存在するための技術」(ジョルジュ・バタイユ)である。キャメラ、マイク、編集台(編集ソフト)、フィルム(映像データ)、映写機、スクリーンといった複数の機械を通過した録画・録音断片の集積が、なにかしらの存在へと生成すること。物語という強固なシステムにも、記録の残骸の無残さにも掬い取られることなく、存在として世界に生まれ、落ちていくこと。同時に、映画を流通させて金銭を回収するまでに、巨額の時間と遥かな金銭を賭けること。映画は、存在を賭け、金銭と時間(つまり生存基盤)を賭ける。二重の賭博行為として、世界に産み落とされた産業が映画と呼ばれている。
観客は存在を目撃するために、チケットと身体の拘束を賭ける。人間と機械の間に生まれる存在を目撃する。目撃だけではない。観る者がいなければ、そうした存在は生まれることすらできない。観客がいなければ存在は消えるのみだ。だから、映画は複製芸術だとしても、この瞬間の賭けのためにある。トリガーウォーニングなど知ったことか。そんな声は、賭博を、つまり潜在的な存在を台無しにしようと目論む民間警察以外の何物でもない。賭けが怖いなら、映画なんか観て何になんだよ。というわけで、映画は賭博である。
同調性と他物性
次。『ナミビアの砂漠』は、新たな同調性についての映画である。同調性を、映画はどのように捉えられるかの実験である。
前提として、映画と同調性は相性が悪い。最悪だ。ここでの「同調性」とは、焦点人物(主人公や主な主要人物、と考えてもらえればいい)と観客がシンクロする感覚、と定義する。俗に、「感情移入」や「共感」と呼ばれるものは、物語における焦点人物の立場や感情の変化を示すことで生まれる、強い「同調性」を指している。
だが映画は、「登場人物への同調」などに還元できない、不気味や不吉などと形容するしかない感性を帯びている。人間とは異なる機構であるキャメラが写し取った映像は、人間の視る能力とは異なる機能によって出力された視野として、スクリーン上に現れる。キャメラは、人間とは別の法則に準じる。人間とは馴染まない不気味を産む。その不気味を、たとえば山本浩貴は「物性」と呼び、濱口竜介は「他性」と呼んでいる。ここでは、両者の名付け双方を受け継ぎ、馴染みない異物である性質を強調するため、「他物性」という語を与える。映画は、原理的な他物性によって同調性を拒否する。
映画は、どんなことをしても「同調性」にすべて傾き得ない。顔のアップや音楽や物語で「表現」にしたてあげれば、それはもう映画ではない。映画が宿す存在は消える。賭けに負ける。「死の宣告を受けたゲイの劇作家が12年ぶりに家族の元に帰って、自らの死期を告げようとして失敗する」という物語を持つ『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン監督、2016)は、アップの顔の連続とポップソングで世界を塗りつぶすことによって、映画から逃げていく。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート監督、2022)は、断片化された映像の洪水をマルチバースの母娘物語に従わせることで、賭けに敗ける。どちらも、「同調性」を強調することで、存在を生み損ねる。「同調性」は、映画にとっては悪手である。しかし、「同調性」なき映画も、現在の産業の中では生き抜くことが困難だ。「同調性」を生む物語話法をハリウッドが(とりわけグリフィスが)発明することによって、複製芸術たる映画は大いなる産業として成立したからだ。「同調性」と「他物性」に引き裂かれたまま、双方を消さないこと。映画作家が肩に背負っているのは、そうした法則の重力である。
「目撃」の映画
『ナミビアの砂漠』は、同調性を物語技法以外の方法で映画の中に押し込もうとする。しかし、映画前半に感じるのは、圧倒的な他物性だ。
本作はまず、「目撃」の映画として観客の前に現れる。冒頭。町田駅を映すロングショットがズームして、ロングスリーブのカットソーを着た腕をぶらぶらさせながら歩く河合優実を映し、彼女が首に日焼け止めを塗りたくるさまを記録した時から、「目撃」は始まっている。たばこを吸う横顔、スマートフォンをいじる指、運転中のタクシーの窓から吐く赤い吐瀉物。この映画は、劇中でカナと呼ばれる河合優実の身振りを目撃する映画だと、人は早い段階で納得する。
「目撃」の感触を保証するのは、背中を追うキャメラの動きである。膝を折りながら仰向けにふとんの上でうなだれているときも、朝の人気少ない街をうろうろするときも、河原でのバーベキューから離れて草場に向かうときも、映るのは河合優実の背中だ。彼女の背後をブレつつ追いかけるその動きは、「目撃」に徹しているように見える。
首をやや前に出した猫背で、横にふらふらブレながら歩く河合優実は、「他物的」を有する。紙たばこだろうが紙ストローだろうがアイスクリームだろうが飴だろうが男の唇だろうが、とにかく口になにかをつけないと気が済まない動態。それは、人間的感情の顕れ以前の、馴染みのない動物性、「他物性」を有している。彼女が他物に見えるのはその動態だけに起因しない。彼女を目撃するキャメラの記録性が、彼女を他物に仕立てている。河合優実から放たれる「他物性」は、キャメラと被写体の双方から生み出される。新宿の路上で靴についたゴムを取ろうとして知り合いのホストに声をかけられる姿、あるいはショップで家具を探す姿を斜め上から見下ろして撮影する固定ショットも、「他物性」に寄与している。冒頭の町田駅のズームも、部屋で河合がアイスを食べるときに使われるズームも、「目撃」の感触を強める。
ところで、本作においてズームは三度使用されるが、あと一つは、彼氏の留守中にブザーが鳴って、河合優実が玄関へ届いた荷物を受け取るときだ。このとき、キャメラは河合ではなく、河合がいじっていたスマートフォンへとズームする。そこには、砂漠の水場を定点で映した映像で、動物たちがうろうろしながら水を飲んでいる。どうやらカナというキャラクターはヒマがあるといつも、YouTubeでナミビアの砂漠をリアルタイム実況し続けるチャンネル「Namibia: Live stream in the Namib Desert」の映像を見ているようだ。カナ=河合優実はナミビアの砂漠の動物を「目撃」している。この映画の観客は、カナ=河合優実を「目撃」している。『ナミビアの砂漠』という題名は、本作における「目撃」の入れ子構造を表している。
カナへの同調体験
この入れ子構造が、本作を「他物性」の目撃から、「同調性」の体験へと反転する機会を映画に与える。河合優実を「目撃」する立場にいた私たちが、カナを体験する場所へと移っていく。
次にカナが「Namibia: Live stream in the Namib Desert」を見ているのは、梨を食べている場面。梨を齧りながらカナはデスクで動画制作の作業をする金子大地演じる恋人ハヤシの背中に、持っていたフォークを向けて、フォークをぐるぐると回す。すると、キャメラもフォークと同期しているかのようにぐるぐると回る。目撃者だった観客は、カナへの同化を体験する。
キャメラとカナの視点の統一を合図にするかのように、映画の後半部はカナの内面世界が映画に混ざっていく。アパートの外でカナとハヤシが歩いている時に、ぬいぐるみを持つカナがハヤシに「ワ~」とふざける。その「ワ~」が急に、部屋で喧嘩をしているときの「ワー!!」という声でつながる。部屋の外と内、平和な戯れと不穏な喧嘩という対比のカットを唐突につなげる編集。つながったあとの喧嘩のシーンは、いくつかの点で幻想性を持つ。まず、説明もなく家の家具が反転している。ソファやテーブルやハヤシのデスクが、いきなり隣の部屋に移動していることが不自然なのだ。さらに、部屋の照明とカバンかけとテーブルの上の「黒ひげ危機一髪」が、同じ形を共有している。複数のアイテムが同じ形を描いているのも不自然だ。加えて、部屋を映す四方それぞれの向きから捉えたカットをつなげた編集、カナの位置から視点が回るショットが、リアリズムを飛び越えた、人工的な印象を与える。
極め付けに、こうした部屋での映像がスクリーン上で縮んでワイプ映像となり、代わりにランニングマシーンで走るカナが大きく画面に映る。一面ピンクの背景の中、カナはかっぱえびせんを食べながら、スマートフォンで自らの喧嘩の場面を眺めつつ、走っている。走ることをやめたカナが動くと、備品と階段が移り、そこが撮影スタジオであることがわかる。カナは階段を上り、スタジオから退場する。喧嘩の不自然なシーンがワイプになり、現実味を欠いたランニングマシーンのシーンにつながる。以上、喧嘩とランニングマシーンの二つの連続した場面は、カナの内面との同調性を刺激する効果がある。
さらに、カナが唐田えりか演じるアパートの隣人と焚き火を眺める場面。そもそも、二人がどこにいるかがわからないし、今まで見知らぬ隣人だった二人が急に親密になるのも不可解だ。二人は焚き火をみつめながら並んで会話した後に、焚き火を飛び越える遊びをはじめる。そこで、動く二人を映した映像が繰り返しオーバーラップされ、マイク真木「キャンプだホイ」を二人で歌う声がエコー混じりに響きだす。ここでの編集も、カナが幻を見ているかのような印象を強調している。「同調性」の演出の繰り返しによって、観客は「目撃」から「体験」へモードを変えざるをえない。
逆流するカナ
しかしながらすぐに指摘しなければならないのは、カナ自身は自分自身を「目撃」するような客観性を、劇の後半で獲得していることだ。主観視点から逃れられなかったカナが、客観視点で自分の位置と感情に気づき始める物語として、脚本は設計されている。自らへの過剰な同調から、自らを他物的に眺める人物に変化している。つまり、観客が「目撃」から「体験」へとモードを変える一方、カナというキャラクターは「体験」から「目撃」へとモードを変えているのだ。カナは、観客の意識を逆流している。
脚本だけでない。本作は、ブレを含む移動撮影が次第に少なくなり、フィックスの撮影が増える流れを有している。監督の山中瑶子本人が認める通り、撮影の変化は、カナが客観性を獲得する脚本の流れを補強している。
もう一つ、前半部でカナの主観性を保証する要素がある。音である。音は前半、カナが聞いた音のように設計される。カフェに入って友人イチカ(新谷ゆづみ)の会話を聞くカナは、話に耳が入らず、近くでインボイスやノーパンしゃぶしゃぶの話に興じている男子三人組の話に耳がゆく。二つの会話が大きくなり、小さくなる。その音のバランスが変わっていく。それはまるでカナの意識が聞いた音の変化のように響く。
こうした音の調整は、至る場面で現れる。川の近くでハヤシと口づけると、水の流れの音が大きくなる。部屋で言い争っていると、隣の部屋から英会話を学んでいる声が聞こえてくる。すでに鳴っていたはずの音が、意識の指向性に合わせるかのように、音量を変化させる。
ところで、人間の聴覚はおそらく、視覚よりも客観性を担保されていない。人間にとっての音のリアリティを、物理は束縛してくれない。私自身の体験だが、昼にまどろんでいるときの、まわりでざわめく声がした。絶対にそこで鳴っているというリアリティがある。誰かに見られていると焦り、必死に目覚めるすると。誰もいない。そのようなことが何度もあって私は、音の客観性を信用していない。
『ナミビアの砂漠』において音の客観性なきリアリティを思わせるのは、渡邊琢磨による音楽である。その音の集合体はカナの変化の激しい意識と並走するようだ。疾走するカナを真横で併走するキャメラの運動と共に、星の煌めきを思わせるキラキラした音が大音量で左右をゆれる。「Piercing」と名付けられた曲では、右でホワイトノイズが広がると、左から鐘の音が響く。街の散歩と共に鳴り出す「Wander」においては、薄いシンセの持続とピアノのささやかな響きの中、線香花火を思わせるパチパチとしてノイズが、左右のスピーカーを駆け巡る。
あらゆる音が主観的に響くのと同様、カナを映しながら流れる音楽も、カナの頭の中を爆音で鳴り響く音のように、位相を変え、音量を変え、スピーカーから飛び出て暗い劇場を疾走する。
しかし、後半に入ると、音の位相の変化も、渡邊琢磨の音楽も禁欲される。幻想的なランニングマシーンのシーンで、機械の駆動音もカナが金属製の階段を上る時の足元も、そっけなく響いている。そこに内面の体験を強調する要素はない。
『大人は判ってくれない』の現在地
『ナミビアの砂漠』は、カナという人物の客観性へ向かう変化を、脚本・撮影方法・音の面から描いている。同時に、観客は編集と視点位置によって、カナの主観へと同調していく。二つの相反する変化が、『ナミビアの砂漠』を特異なものとしている。
本作を観ていて私が強く思い出した映画は、『大人は判ってくれない』だった。フランソワ・トリュフォーの長編監督デビュー作であり、ジャン=ピエール・レオ―演じる少年アントワーヌが親や教師たちと軋轢する様を描いた映画であることは言うまでもないだろう。軋轢を、劇的なドラマというより、ふらふらした彷徨として演出した点が似ている。両者が共有しているのは「同調性」の在り方だ。『大人は判ってくれない』では、アントワーヌを映す視点と、アントワーヌから見る視点が交わっている。母親が知らない大人と路上でキスするのを目撃したとき、勢いよく回転するアトラクションで遊ぶとき、車で少年鑑別所に運ばれ行くとき、彼を映す視点と、彼から見る視点が交わっている。その末に、海まで走った後でキャメラを見返すアントワーヌを映したラストショットで、私たちは彼を「目撃」しながら彼を「体験」する。「目撃」と「体験」の二重性という点で、『大人は判ってくれない』と『ナミビアの砂漠』は相似している。
しかしながら、というか当然というべきか、60年以上前に公開されたヌーヴェルヴァーグの記念碑的作品と、『ナミビアの砂漠』はやはり異なる。『大人は判ってくれない』では、客観的視点と主観的視点は前半からどちらも現れてつつ混じっており、後半に大きな演出変化があるわけではない。『ナミビアの砂漠』においては、前半と後半が入れ替わっている。本作には、新たな「同調性」が芽生えている。この同調性は、何を我々に示すのか。
権力と「ティン ブー ドン」
本作では、目線の位置の変化が劇の形成を担っている。二人の男性の恋人とカナとのやり取りの中で、視点の高さが常に権力関係を暗示していた。一人目の恋人ホンダ(寛一郎)が部屋で謝罪するとき、路上でうずくまって泣き叫ぶとき、カナは高い位置から見下ろしているかたちとなる。座っているハヤシを、立っているカナが詰問する場面も複数ある。しかし、最後のハヤシとカナの切り替えにおいては、視線は平行関係に変わっている。
カナの口調として特徴的なのは「おなかすいたー」「クビになったー」というときの語尾の甘えるような伸ばし方と、怒りをあらわにするときの「拾えよ」という命令口調だ。二つの特徴は相反する特徴でもあるが、パートナーに対する権力の行使という点で、強調している。なんでお前が私のこと決めんだよと、直接的にハヤシにいう場面もある。最後、カナのスマートフォンにテレビ電話がかかり、中国人の母と親戚らしい人々が中国語で話しかける。カナは「ニーハオ」と「听不懂(ティン ブー ドン)」という言葉で返すしかない。ハヤシが「ティン ブー ドン」がどういう意味かと問う。カナは短く答える。「わかんない」と。これはもちろん、「听不懂(ティン ブー ドン)」が日本語の「わかんない」を意味するが故の返答なのだが、同時に、カナにとっての実存的な「わかんない」に響く。これからどうすればいいかわかんない、あなたとどう接するのがいいのかわかんない、わたしはわたしがわかんない。複数の「わかんない」が、カナの声から聞こえてくるかのようだ。「わかんない」のあと、沈黙するカナの顔で、本作は終わる。その言葉で、はじめてカナは権力行使を捨てている。そこに、甘えも命令もない。視点と発話の二点で、はじめてカナがハヤシと対等に向き合う瞬間が感知される。そして映画は終わる。
上記の意味で『ナミビアの砂漠』は、人間関係における権力を問題にした映画である。そして、この映画の「同調性」は、権力と関わっている。
映画を殺して映画を生かす
「他物性」は、見ることの権力性の上に成り立っている。初期の映画の役割は、見せ物小屋のバリエーションだった。監視カメラは、共同体権力の道具として今でも大いに役立っている。加えて、物語映画の歴史の中には、女性が撮影や編集や撮影の中で見せ物にされたという事態がある。ニナ・メンケスのドキュメンタリー映画『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』が証たてるように、『レイジングブル』や『キャリー』といった有名作の中で、男性目線での女性を撮る技法が駆使されていた。『上海からきた女』では女だけが二次元的な照明で水着姿を映され、『ドゥ・ザ・ライト・シング』では女性の身体が断片化して撮影された。男性に暴行を加えられた女性が、最終的に男性を受け入れる、「嫌がっているけど本当は・・・」的な物語も多く作られた。私は『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』に関していくつかの点で批判的だが、多くの物語映画が男女間の権力勾配を発揮していたことは確かだと判断する。
つまるところ、映画が有している「他物性」は、男女間における見ることの権力性を増幅するために利用されてきた。もちろん「見られる」ことの快楽もあるわけで、見る/見られるの関係を安易に差別的だと断じるわけにはいかない。互いが積極的に望んだ「見る/見られる」の関係性も存在するだろう。重要なのは、多数の作品を通して、不均衡性が歴史として蓄積されていることに存ずる。
映画を愛する以上、我々は映画の「他物性」に惹かれざるをえない。その不気味な力なくして、映画は貴重なものにはなりえない。しかしながら、映画の「他物性」は、権力勾配と時間をかけて結びついた。権力関係に敏感な映画は、他物性が持つ権力にも敏感にならざるをえない。他物性の魅力を、信じ切ることができない。だからと言って、「同調性」にただ靡くわけにもいかない。不均衡を逆転するだけでも済まされない(カナが男性二人に対して権力を行使していることは留意するべきだろう)。
その地点において、『ナミビアの砂漠』における「新たな同調性」は要請される。物語的でもなければ、延々と主観に付き合わされるわけでもない同調性が。客観的になっていく人物に、映画の途中で入り込む同調性が。権力を相殺するかのように、「他物性」と「同調性」は衝突する。カナの変化と観客の変化が衝突する。本作は、他物を他物のまま放置しないし、他物を強引に共感可能なものへと編集しない。共感を拒否したまま、カナを体験すること。他物としての河合優実に、同調していくこと。映画を否定しながら映画を肯定する不可能性が、映画を殺しながら映画を存在させる不可能性が、本作では賭けられている。新たな同調性を頼りに投げられたサイコロが転がる(証明作業完了!お疲れ様でした!)。私は、この映画は賭けに勝ったと思う。権力関係が消え、「他物性」と「同調性」が消失する最後の時に、私たちはカナ=河合優実の真っ直ぐな視線を生まれたばかりの存在として発見するからだ。
本作のパンフレットにおいて、ゆっきゅんは「安心する」映画だと、五所純子は山中瑶子を「やさしい作家」だと形容した。その安らかな優しさは、本作が宿した映画を否定するための映画性に、暴力を拒否するための暴力性に由来している。