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罵倒について


先鋭化すると否定せざるを得ない


 結局、文章を書いたりイベントで話したりYouTubeで動画を上げたりするのは、「社会運動」なのだと思った。もちろんビジネスなのだがそれだけでない。自己顕示ももちろんあるけどそれだけではない。社会へ働きかけ、社会を活性化させる欲望がなければ、おそらく批評はやっていない。数を集めて多数派となって社会を動かすという欲望はもっていないから、狭義の意味での政治活動は行っていない。けれど、自分以外への複数の他者への働きかけを念頭に置いていないはずはない。

 社会運動としての言葉は、尖らせれば尖らせるほど、学を重ねて経験を積んで理論を先鋭化させるほど、他人の思考や言葉を否定しなければいけない場面にでくわす。罵倒を投げなくてはいけない場面も出てくる。議論は学習や経験にとっても社会の活性化にも有効に機能しうる。そうした場面で、他の思考を切り落とす必要はどうしても出てくる。困難なのは、他の思考の切り落としと、他の存在の切り落としを分け隔てることだ。

主体意識における罵倒の困難


 二重の困難がある。私という主体意識の問題がひとつ。他者の思考や言葉を否定しなければいけない、間違ったことは間違っていると罵倒したい。そうした必然や欲望が広がると、思考や言葉を表現した他者自身への軽蔑に連結する場合が非常に多い。

 具体例を挙げてみる。最近、斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読んだが、多くの欠陥があると思った。温暖化をはじめとする環境問題の解決は資本主義をやめる以外になく、「希少性」と「差異」から生まれる価値を捨てよう、というのがだいぶ大まかな本書の主張。しかし、希少性への欲望は資本主義の外側にも存在していると私は思う(小さな部族にも共産主義国家にもあるだろう)。希少性を求める欲望や心理を分析しない限り、つまり人間の心の領域を探索しない限り、本書の提言は機能しないのではないか。さらに、「もちろんソ連は論外だ」といって、ソビエト連邦の分析を為していない。脱成長の組織とソ連の違いは何かを本書は示していない。専門書・論文ではもっと分析しているのかもしれないが、一般読者向けの新書だとしても最低限の差異化は必要だろう。斎藤が提言する脱成長の組織が、ソビエト連邦の政治システムよりましになるとは思えない。

 などなど、『人新世の「資本論」』に対していくつもの指摘がしたくなるのだが、このような欠陥への苛立ちは本書を書いた著者への苛立ちと不可分になりがちだ。単純に言えば、「こんなことを書いている著者は阿呆だ」「なんもわかっていない」などの罵詈雑言が頭に浮かぶし、実際にソーシャルメディアに書く場合もある(齋藤さんに対しては書いてないが)。

 ここには飛躍がある。言葉の上で論理的欠陥や紋切り型の表現が目立つ場合でも、著者自体を紋切り型のつまらない人間である、とイコールには結べない。実際の肉体を有する個体と物理的に接近しつつコミュニケーションを取らない限り、私の主観的な判断は信用ならない。

 この「イコールには結べない」という言葉は、論理的な帰結というより、私自身の経験的な判断だ。文字表現がつまらない他者に、心を動かされた経験がいくつもある。行動の速度や、表情の変化や、声のキメや律動に驚きを感じた経験が山ほどある。複数の人間の心理を調整する技術や、怒りを表明する顔立ちに信頼を覚えた経験も山ほどある。そもそも、どんな他者であれ簡単に存在を切り捨てたくない。

 私自身にせよ他の人にせよ、意識主体は、発された言葉と発した人間存在の区別がすぐにできなくなる。TwitterやThreadsのような、言語中心のソーシャルメディアでは特に言葉と存在の区別ができなくなる。主体意識における問題とは、つまりそういうことだ。

困難は受容を含む

 加えて、受容側の問題もある。主体意識が発された言葉と発した人間存在の区別を成し遂げたとしても、受容意識がその差異を読み取れるかどうかは別の話になる。言葉や表現は、当人にとっては自分自身の分身という感覚が残る場合がほとんどではないか。本人が、直観と思考を駆使して作り上げた言葉やものを、他者に罵倒されて否定される。それは、当人の存在の否定とどう区分けできるのか。直感的には、「私という存在が否定される」と感じざるを得ないのではないか。訓練を積めば区分けできるだろうか。わからない。いずれにせよ、他者から判断を受容する立場に立った人間にとって、外に発した言葉や表現は簡単に主体意識から区別されえない。
 
 すべての批判を封じ込めて平和を獲得しようとする態度も、稚拙な表現を為した他者の存在を口汚く罵る態度も、私は切り捨てる。しかし、切り捨てたうえで自身の立場を示すためには、主体意識と表現との関係を、突き止める必要がある。主体としても客体としても、意識と表現を分離できるポイントを定める必要がある。

 最近だと、Twitterでの村上春樹をめぐる議論が、見識の甘い人間をさまざまな立場の人が罵倒する流れになっている。非見識故の無礼を働いている連中に、罵倒したい気持ちは私自身も抱えていた。だが、そうした罵倒は存在の否定にすぐ結実するし、存在の罵倒が多くを占めると、論理的に事実や論理の誤りのみを指摘した文章も、受容者にとっては存在の罵倒として感受される回路が強くなる。たとえ皆が合理を持って論難したとしても、存在の否定の感触は残る。直接顔を見て話せばそうした批判を受け入れやすいかもしれないが、Twitterではそうはいかない。身体言語や身体接触や表情確認ができない、ソーシャルメディアでの言語記号のみのコミュニケーションが持つ困難の一つだろう。結果、論理的な議論や事実の積み重ねによる真実の発見の喜びは、いつまでもやってこない。このような事態を私は不毛だと感じる。けれど不毛さを飛び越えるには、気の遠くなるほどのプロセスを踏まなければならない。飛び越えるために、一歩一歩やらなくてはいけない。やったとしてもうまくゴールに辿り着くかはわからないが。

空が一斉に晴れ渡るような、清々しい罵倒がしたいよ。


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