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自然を深く敬って生きる 人間中心のパラダイムの転換を(推敲後)

聖フランシスコ
「医師の祈り」
主よ 私をあなたの医療のしもべにしてください。
病には治療を、怪我には救助を、苦しみには安堵を、悲しみには慰めを、
絶望には希望を、死には受用と平安とをもたらすことができますように。
どうぞこの私が自分を正当化するよりも他に慰めを与え、
服従を求めるよりも他を理解し、名誉を求めるよりも他を愛するようにしてください。
なぜならば私たちは自分を与えることによって人々を癒し、相手の話を聞くことによって慰めを与え、そして死によって「永遠の生」へと生まれ変わるからです。

 聖フランシスコは清貧に生きた聖者であった。欲望を捨てる為にご馳走を食べる時、灰を振りかけて食べたと言われている。ちなみにほぼ同時代に生きた日本の明恵上人もご馳走に埃(ほこり)を混ぜて食べた。やりすぎの感じもあるが、当時の聖者が我欲を防ぐのに必死だったことがわかる。

 天の父は悪しき者にも良き者にも、太陽を登らせ、正しき者にも正しからざる者にも、雨を降らしてくださるからである。(マタイによる福音書)神や仏(自然)は人間の理性、知性のような分別(自と他、善と悪など我他彼此 ガタピシと)をしていないので、一切の害虫も害獣も安住させて全てを受け入れ、育むことが出来る。(対待を絶した、絶対の愛、慈悲)人間も知性、理性を最高に磨き、働かせた上で人間中心の物の見方、考え方では限界がある事、それだけでは解決できない問題があることに気付き、大自然に敬虔に頭を下げ分別をやめている(お祈り、坐禅、お念仏)まさにその時、自己と自然、広い広い空(くう)と自己が一体となる。「坐禅は自己の正体(しょうたい)なり、そのほか別に仏法の求むるべきなきなり」(正法眼蔵随聞記)「知覚に交わるはこれ証則(悟り)にあらず」(正法眼蔵 弁道話 べんどうわ)の巻)「尽一切自己 じんいっさいじこ」(正法眼蔵 行持の巻 達磨大師の説明)尽十方界真実人体(じんじっぽうかいしんじつにんたい)というお題で「世の中にまことの人やなかるらん かぎりもみえぬ大空の色」礼拝というお題で「ふし草も 見えぬ雪野の白鷺は おのが姿に身をかくしけり」(自然と自己が一体となり、見渡す限り白一色の大自然生命のみとなり、我が消えている)(傘松道詠 さんしょうどうえい 藤原定家と親交があった道元禅師は趣味の為ではなく「道」の為に詠われた 定家の日記「名月記」には仏法坊(道元禅師のこと)のこととしてとの題で比叡山によって初回道場 京都宇治の興聖寺が破却されたと書かれている)

お釈迦様、道元禅師は生涯坐禅を続けられた、(たしか、インドの十住毘婆沙論などには歳をとって坐禅ができなくなったらお念仏をと書かれている)キリスト様は生涯お祈りを続けられた。私も精進して常に覚めて「大人」を自己の方向としていきたい。(精進とは精にして混じらず、進んで退かずと   諸仏はこれ大人 だいにん なり  正法眼蔵八大人覚の巻)(西遊記に孫悟空が筋斗雲を起こして世界の果てまで飛んだが、ついにお釈迦様の手の中から出ることができなかったというのはお釈迦様の大人としての大きさを表している。阿弥陀(インドではアミターバ アミターユス)は無量寿、無量光と翻訳される。無量の大自然の寿いのちの時間的長さと、無量の光宇宙の空間的広さと。)

神を忘れた教育は知恵ある悪魔を作る(ガリレオ・ガリレイ)

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