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菩薩道を慕う

丘宗潭(曹洞宗大学 現在は駒沢大学 学長 )老師の禅戒鈔講話を拝読させていただいた。禅戒鈔は、江戸時代の万仭和尚(ばんじんおしょう)が著されたものだ。また、丘宗潭老師は、澤木興道老師の師であった。丘老師が、修行僧の小参(しょうさん、疑問を尋ねること)を受けた。僧 「一大事(仏教の肝心であり、人生で大事なこと)をお示しください」 丘 「一大事、何、貴様のか」 僧 「私の一大事です」 丘 「貴様一人くらい、どうだっていいじゃないか ワハハ」(現代では、パワハラですね)澤木興道老師は、隣の部屋で聞いていた、何と意地が悪いのかと思ったが、人生で大変なことがあると、この「貴様一人くらい、どうだっていいじゃないか」という言葉が救いになったという。     「仏法とは、無我にて候」(蓮如上人) 
 丘老師の、「自利の小を捨て、利他の大を取るが菩薩の慈悲だ。おのれのために社会を犠牲にするは悪い。おのれを犠牲にして、社会を救済するが菩薩だ」
 「法華の文に皆是とある以上は、亡者も皆是の一つなれば、仏の救済にもるることなし。、、、皆是という以上は、存者は救済するが、亡者は救済せぬといふことはないことが解る。決して亡者を捨てぬから、亡者得脱うたがひなし。」という言葉が特に印象に残った。自分一人が一所懸命に行ずる坐禅が、自分自身に知覚はできないが、世界中の一切衆生、亡くなられた方、すべての生き物までも救っているところがあるのですね。(大自然生命、生命的生命全てと、つながるから)

 『道元禅師の和歌』
 守るとも覚えずながら小山田の いたづらならんかがし(田んぼのかかしのこと)なりけり (行住坐臥を詠ず) 
 おろかなるわれは仏にならずとも 衆生を渡す僧の身ならん
 徒に(いたづらに)過す月日は多けれど 道をもとむる時ぞ少なき
 植えて見よ(坐禅してみよということですね)花のそだたぬ里もなし 心かよふぞ身はいやしけれ
 草庵(くさのいほ 侘びしい寂しい清貧)に起きてもねても申すこと われより先に人を渡さん 

 接心(朝4時から夜9時までの坐禅が3〜7日ほど続く)に通っていたとき、コロンビア大学の学生さんが二人、熱心に同じスケジュールで坐禅していた。(オバマ元大統領はコロンビア大学出身ですね)その時、「西洋では、禅、正法眼蔵は、宗教ではなくて哲学と受けとめられている」と話していた。日本においては、私自身もそうだが、宗教と聞いただけで嫌な気持ちになる人が多いので、(宗 人生にとって大切にすべき 教えという意味なのだが)哲学で良いのではないかと感じる。人生にとって大切なことを科学、哲学から批判し疑い修正しつつ、淡々と学び、精神を深め、広く、大きくしていく必要があると思う。しかし坐禅の「行」が大切だということは、忘れてはいけないと思っている。

  マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉(非暴力の運動は誠に素晴らしい、これからの時代に非常に重要となる筈)(キング牧師の言葉 コレッタ・スコット・キング編)

 「同義はその独自性を失ってしまった。現代の人間にとって、絶対的な正義とか絶対的な悪などというものは、大多数の人間が行なっていることから判断されている。つまり、『正しい』や『悪い』の判断は、ある特定の共同社会の好き嫌いや習慣にかかわりを持つことになる。私たちは知らず知らずのうちに、物理的世界のことを的確に述べたアインシュタインの相対性理論を、道徳や、倫理の領域にまで適応しているのである。」

 「私たちは、成功ということを考えるとき、その人が他人にどれだけ立派に尽くしているか、どうかかわっているか、ということより、むしろ給料はいくらか、車の大きさはどれくらいか、といった基準で判断してしまう傾向がある」

 「人間はだれでも創造的な利他主義という光の道を歩むのか、それとも破壊的な利己主義という闇の道を歩むのかを決断しなければならない。これは、判断力の問題である。人生で最も永続的でしかも緊急の問いかけは、『他人のために、いまお前は何をしているか』である」

 「憎しみや辛辣では、決して恐れの病を癒すことはできない。ただ愛だけにそれができるのである。憎しみは人生を麻痺させる。だが愛は、人生を解放する。憎しみは人生を混乱させる。だが愛は、人生に調和をもたらす。憎しみは人生を暗くする。だが愛は人生を明るく照らしだす。」


「最も間違っているもの、それは『これに違いない』ということ、そのことである。信念は嘘よりも危険な真理の敵である」(フリードリヒ・ニーチェ)

「確信して疑わぬは愚者だけである。あまりに、自分の考えに自信を持ちすぎて、これと反対の考え方はあり得ないなどと思い込むのは、まったく困った病気である。断定と固執は、愚昧の明らかな証拠である」(ミシェル・ド・モンテーニュ)

「その言葉や概念が、いかに明白に見えようとも、それは限られた範囲にしか適用できない」
 「もし人が、決して誤ったことを言わないでいたいと固執するなら、沈黙を守らなければならない」(ハイゼンベルク 1932ノーベル物理学賞)

 大乗菩薩として、自分の名利など捨てたい。平和の折り鶴は誰が発明したかは分からない。ただ、その折り方だけが人に伝わり、今や平和の象徴として、全世界に広まって行く。自分一人の小さな我欲を手放し、そんな生き方を発明したいと、願っている。
  よしや身は武蔵野の原にきゆるとも とどめおかまし大和魂(吉田松陰)

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