21世紀以降の人類の歴史は(再推敲後)
(人類歴史方向の深さ)
二十一世紀以降へのメッセージ
古来東洋の文化は落着き志向の文化
古来西洋の文化は生き甲斐志向の文化
仏教は一切ぐるみである自己が ひたすら
一切ぐるみの自己する 自己落着きの宗教
基督教は壮大な摂理展開による
いのちがいのちに成長する
いのち生き甲斐の宗教
仏教基督教は近代科学技術文化とともに
人類がいままでに築いてきた最高文化遺産
この歴史的最高文化遺産を
もし二十世紀時代のように切り捨てて顧りみず
仏神に代り人間欲望のみを至上価値として
ただ欲望満足のためにだけ科学技術を使うなら
人類は二十一世紀以降は生き残れまい
人口増加に掛け合わされた人間欲望の大爆発は
いかなる社会政策も抑圧できず
さりとてどんな科学技術進歩も
それを賄い切れはせぬ故に
ただわれら個人個人が仏教基督教に導かれ
自己が自己に深まる生き甲斐を見出す処
二十一世紀以降の人類歴史の進みの方向も
始めてひらかれてゆくだろう
われわれそれぞれが自己完結するところ
ほんとうに時期世代をいのちとして
育てる方向も見出されてくる故に
現代科学技術文明の生活の智慧とともに
仏教基督教に自己のいのちの智慧を学びつつ
これを鼎(かなえ)の三脚としながらこれからの
新しい時代を切り拓いてゆくべきだ
折角過去に偉大な文化をもつ
人類なのだから
スターバックス、フェイスブック社に招かれたサンフランシスコ国際禅センター元所長藤田一照師の師である内山興正老師の詩(御いのち抄 柏樹社より)
御いのちという言葉は、正法眼蔵生死の巻の、「この生死はすなわち仏の御いのちなり」からの引用である。大自然的生命を、仏の御いのちと言ったり、仏性と言ったり、心と言ったり、空と言ったり、無と言ったり、その時代、時代で理解しやすいように表現を工夫していかなければならない。禅で不立文字と言いながら、書物が一番多いのは、人の真似をせず、それぞれ各個人の命から創造していくからである。「仏道とは、自己の生活を創造していくことである。宿なしの生活も自己の発明である」(澤木興道師)(宿なしは、英訳本ではホームレスとなっている、、、もう少し良い訳がなかったか、、、)生死の巻は、道元禅師から親鸞聖人に贈られたと伝わっている。(駒澤大学元学長、大谷哲夫師の講義でお聞きした。この二人に交流があったことはあまり知られていないが、禅宗の道具を持った親鸞聖人の像があるという)人類の歴史で無宗教の時代はわずか最近のことだ。世界が受け入れざるを得なかったのは、永く続いた西洋キリスト教文明ではなく、宗教戦争後のキリスト教への不審より始まった、強大な力を持つ『世俗化した』西洋科学技術文明であった。そしてその文明は二度の悲惨な世界大戦を引き起こした、、、(A・J・トインビー)今日、宗教といえば、科学に反する単なる迷信や、偏狭に凝り固まった宗派が言われているので、その意味では無宗教は結構と言わなければならない。ただ、「己を愛するがごとく汝の隣人を愛せよ」(聖書)、「無縁の大慈悲」(仏典)という無差別の慈悲、愛を捨て去ってよいとは思わない。自己の人生にとって大切な事を学ぶという意味で、淡々と道を学ぶ時代を来たらせなければならない。(内山興正師 人生科)
A・アインシュタインは日本に原爆が投下された後、つぶやいたという、、「科学のない宗教は盲目である、、宗教のない科学は危険である」と。