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長い夜を歩くということ 5
突然の声に、私は焦って目を覚ました。焦る必要など微塵もないのだが、この癖だけは東京を離れても抜けないらしい。
「気持ちよく寝ていたところすまないねぇ」
運転手は私を見て微笑んでいた。顔に刻まれた深い皺の数々で、今更ながらこの運転手は私よりも二回りほど年上であることがわかった。
そんなことはトランクに荷物を乗せてもらった時にでもわかって良いはずだが、よっぽど歩き疲れていたのだろう。
「いえ、丁寧な運転のおかげでゆっくり休ませてもらうことができました」
私はそう伝えると料金を確認した。そして、クレジットカードを手渡した。
「領収書はどうなさいますか?」
運転手の声に「はい。お願…」と言いかけて止めた。そしてすぐに「いらないです」と訂正をした。
そう言えた時、私は未だ体を掴む東京という見えないヴェールを切り離すことができた。
運転手が一瞬だけ真顔になっていたが
「じゃあ、このまま会計しますね」
とすぐに笑顔に戻りクレジットカードで決済をした。
タクシーから降りると、黒いアスファルトだった足元は大きな石畳に変わった。
運転手はキャリーケースを私に渡すと、丁寧にお辞儀をしてタクシーに乗り込み、私を載せた時と同じくゆっくりとした走り出しで去っていった。
タクシーを見送ると私は聳え立つ大きな旅館を眺めた。そこもまた、時を留めていた。
私は時間の狭間に吸い込まれていくかのように旅館から並び敷かれた石畳の上を歩いた。
キャリーバッグは興奮を隠しきれない子供のように音を立てて揺れ、私の左手にはやる気持ちをぶつけていた。