長い夜を歩くということ 86
彼は今日もバーで彼女の歌を聴いていた。
また聞かれるであろう「今日の歌どうだった?」の問いに答えるため、彼はしっかりと彼女の方に顔を向けていた。
曲名も少しだけ覚えられるようになっていた。
それでもやはり彼が一番好きなのは「Fly Me To The Moon」だった。
彼女が歌っている時はウィスキーを飲み、そして、二人で話す時にはカクテルを飲んだ。
もうどれだけの色を頼み、話したのかはわからない。
きっと同じ色を何度も頼み、その度に変わっていく二人だけの色彩を楽しんでいたはずだ。
彼はそんなことを考えていた時、突然話しかけられた。
驚いて振り返ると、そこには会うことをやめていた友人の姿があった。
その男はバツが悪そうにしながらも、彼女の特等席になんの遠慮もなく座り、重みを与えて踏みにじった。
マスターに「彼と同じもの」と注文してグラスを受け取ると軽薄な言葉しか吐かない口に、彼と同じウィスキーを流し込んだ。
どうやって知ったのか、と彼は問い詰めたかったが、あえて聞かなかった。
ただ、彼女の美しく歌う姿が入る視界に、墨汁をこぼしたように入り込んでくることが許せなかった。
写真を破るようにその存在を消してしまいたかった。
「あの人が真二が言っていた彼女?」
その男は彼女を見てそう言った。
その男の言葉、一文字一文字を燃やして、喉を焼き切ってしまいたいほどに彼の感情は昂っていたがなんとか堪えた。
彼はじろりと一瞥して、「ああ」とだけ答えるに留めた。
その男はそれ以外何も言わなかった。
ただ彼と同じように彼女の姿をずっと眺めていた。
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