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長い夜を歩くということ 89
「でもな、俺たちは社長なんだ。俺たちの言葉も行動も選択も全て社員が見て、クライアントが見て、世間が見るんだ。お前は盲目の彼女のそばにずっと付き添いながら人前に出るのか?それでパーティーに出るのか?他の社長の妻が三歩後ろを歩いて旦那を立てるのに、お前はまるで執事のように彼女の様子を常に目配せしながら歩くのか?そんな姿をお前は周りの人間に見せるのか?」
彼は何も言えずにいた。
怒りは彼の体で受け止められる量をとうに越していた。
しかし、口は溶接されたかのように開かない。
「なあ考え直せ。お前が心底のあの娘に惚れていることはわかった。そして、その選択は人として正しい。それは俺だけじゃなくてきっと他の奴らも一目瞭然でわかる。でも俺たちは社長なんだ。特にお前は業界の顔なんだ。綺麗な愛を貫けばいいだけの”ただの人”じゃないんだよ」
彼の目からは涙が流れていた。
それはほとんど血が流れているのと変わらなかった。
彼が立てた誓いが今、人として貰い受けた幸せを切り倒そうとしていた。
流れる血は止まらない。
その傷口は決してふさがらず、何よりも傷は内側から付けられていた。
その奥にあるものを、彼はどうしても触れることができなかった。
何も動けずにいると、男はもう何も言わずにタクシーに乗って消えていた。
彼はそれでも、硬く拳を握りしめて、その場から動くことができなかった。