![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/80974489/rectangle_large_type_2_4793656f507bf8b60529168eacce5e56.jpg?width=1200)
左手に金の滝が打つ 7
第1話
前話
父親は慈善事業家などではない。子供が好きというわけでもない。ではブランドイメージのためかといえば、そういうわけでもない。持て余した金の使い道をこの「才能の飼育」という娯楽に使いたかっただけだ。
『与えられた才能が治外法権の中でどのような成長と変化を見せるのか?』
父親の興味はまるでテレビゲームでも始めるようなそんなことで始まった。父親と会うと彼はいつも笑顔で、そのたれ目は雨が流れていくように優しく細くかろうじて開かれている。
ほんの少しだけ見える黒目には常軌を逸した純粋さが光り、貼りつく笑顔の裏には屍の山があった。
つまり、父親に愛など全くないわけだ。
もしかしたら彼は彼なりの愛を持って接しているのかもしれないが、それはつまり「金をかけた量だけが愛の量」とでもいうものだろう。
その歪さに耐えられない子供たちもいて、私が来てからでも、ざっと十人は施設に逆戻りしていく光景を見てきた。
私には彼ら彼女らが出て行く時に浮かべる安堵の溜息と表情を見ると哀れに思い、ギフトという金で買った才能を情という獣の本能で捨てる愚かさに呆れ返っていた。
情という愛にどれだけの価値があるというのだろうか。
それでどれだけの飢えを凌げるというのか。
それでどれだけの経験をすることができるというのか。
少なくとも私には父親の「金だけを与える」という形は愛以外の何物でもなく、この上なく自由なのだ。それがたとえ鳥かごの中であっても。
父親という入り口を通して与えられるものは、ただ可能性だけが無限に続くように見せられた世界図より、よっぽど知らない知識と経験に溢れている。
どんなに情というものがあろうと、公が準備をした図書館という場所しか与えられなかった肉体の提供者である両親よりも私にとってはこちらの方が愛なのだ。
そして、体の両親がしようとしてきたしつけなど、彼らのただの自己満足でしかないのだ。