かくも白き雪 大西廣先生を憶う
夕方大学の恩師から久しぶりに電話がかかってきた。
電車に乗っていたので取れなかったが、とっさに虫の知らせを感じた。なぜか、ぼくはこういうのがよくわかってしまう。コールバックすると、大学院で大変に薫陶をうけた大西廣先生がお亡くなりになったという。
大西先生は、東大の助手からニューヨークのメトロポリタン美術館の学芸員になられてお勤めののち、国文学研究資料館整理閲覧部長、武蔵大学の教授を務められたと記憶している。退官ののち、日芸の非常勤講師になられて、ぼくはそこで先生に出会った。
エルンスト・ゴンブリッチの大著『美術の物語』の翻訳者の実質的なリーダーでもあられた。
たしか、先生は日芸では日本美術史特論という大学院の授業を担当されていて、これが、とてつもなく長い。たしか「大西ゼミ」は2時半からスタート。4〜5時間は当たり前。もしかしたら、4時からはドクターの授業でぶっ続けでやっていたのかもしれない。7時前後に(みんなお腹が空いて)授業がいちおう終わると、そこから残った連中と先生でごはんにいく。先生は中華がお好きだったように記憶する。
先生は、とにかく食べるのが遅い。そしてお話が好き。なので、夕飯でもまた、2時間くらい議論が続く。
先生はメールもとても好きだった。ぼくは、都合5年先生の授業に出て、留学中も「メールゼミ」(授業がたいがい白熱してタイムアウトになるので、メールで番外議論がつづくのだ)に参加していた。
先生との思い出はたくさんある。プロジェクタを2台使って絵を二枚投影して比較を行うという方法をかのヴェルフリンが始めたのだという話になった翌週は、ご自身所有のポジスライドの映写機を2台持っていらして、ヴェルフリン式の講義をうけたこともあった。
先生がずっと温められていたのは、「壁の絵と本の絵」という理論だった。これはぼくが一番影響をうけたもので、壁の絵(壁画や屏風)と本(持って見るというフィジカルな大きさの絵)に描かれる絵では、メディウムの権威構造の違いから、必然的に描かれる内容が変わってくるというものだ。ぼくは数年前に1850年代の名刺判写真の登場と写真のコレクション性に関する論文でこの理論を敷衍させて、先生はかなり喜んでくださった。今思えば、あれが先生に最後にお目にかかったときだった。それは拙著『写真の物語』の肖像写真を論じた章でも使ったけれど、ついぞ先生には感想をうかがえなかった。
だけど、一番よく覚えているのは、初めて先生に出会ったとき。
当時、日芸は校舎の建て替えをしていて、大西ゼミは小さなバラック建ての掘っ建て小屋みたいな建物の二階の教室で授業を行なっていた。10畳くらいの部屋に、むりやりサブロク(90x180cm)の机が何台か押し込まれていて、とにかく狭い。その机の島を囲んで授業をする。机と壁のあいだが40センチくらいしかない。
そこで大西廣が熱弁を、というか熱い議論を学生と交わしていた。先生は、とにかく筆圧が強い。小指の先くらいのチョークをつまみ上げて、何かを書き出した。ものすごい勢いで、チョークの粉が落ちていく。いや、降り注いだという方が正しかった。身動きの取れない部屋で、先生の指先から降り注ぐ、かくも白き雪。なぜか忘れられない。
先生は、メモ魔であった。月光荘のA5版のメモ帳を100冊以上所有していて(お宅の本棚の上にそれが理路整然と並んでいた)、使い切るのではなく、全部同時に使う。家を出るときに、てきとうに手に取ったものをもって行き、あくる日はまた別のノートをもっていく。智のブラックホールのあだ名もさもありなん。
そして先生は大の読書家である。最後まで愛読家を貫き通したそうだ。それで、先生はきっとなんでもかんでも手元にあるものを栞につかってしまう。あるとき、先生にゴンブリッチの『Art and Illusion』をいただいた。そこには、1ドル札がはさまっていた。
先生、ついぞ偉大なる1ドルの借金を、ぼくはお返しできぬままに先生はいってしまわれました。あちらでもゼミをやられるならば、ぜひホワイトボードでなく、黒板の部屋にしてください。また、かくも白き雪が降る教室で5時間も6時間も議論して、そのあとは中華を食べに行きましょう。1ドル借りているので、ビール代はぼくがだしますよ。
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