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写真による新たな都市論へ? 時津剛 『BEHIND THE BLUE』

ここ数年、路上生活者の「ブルーシートの家」を見かけなくなった気がする。それはわたしの”言われてみれば”な感想でもあり、これから論じようとしている作品の根本でもある。
「ブルーシートの家」は見かけなくなったのではなく、都心部から排除され、いわば不可視化されているに過ぎない。

そのことは、時津剛の写真集『BEHIND THE BLUE』の表紙と、新宿のニコンサロンで開催中の同名の個展のフライヤーに使われている同作のキーイメージが雄弁に物語っている。


『BIHIND THE BLUE』表紙
展覧会フライヤーにもこのイメージが使われている

学生時代からワンカップ酒を手土産に新宿などの路上生活者の取材をしていたという時津は、路上生活者たちが新宿から(ひいては都心部から)排除された経緯に実際に立ち会い、その経験をこの写真集の巻末にしたためている。彼らは、郊外へと追いやられ、都会の中で不可視化されたのだと。

本作は、多摩川沿いの地域のブルーシートの家とその家主を主題した作品である。時津本人は、本作について「オーソドックスなドキュメンタリー」というが、個人的にはそれなりにコンセプチュアルな仕掛けも多い作品と見た。
たとえば、多摩川花火大会が行われる日の日中の河川敷の写真。すでに屋台が並び、場所取りをする人々が点々とブルーシートを広げて座っている。ブルーシートの用途の対比、この地域での経済格差の対比。アイロニックだ。
もう一点気になるのは、土の上に落ちている聖母子の絵を捉えたもの。性別、国籍、働き方、価値観・・・さまざまな多様化が進められる中、当然だが比例して路上生活者も多様化しているのだという暗示にも見える。
冒頭で触れた表紙の作品も含め、それらは写真による都市論という性質をもっている。


その一方で、対象となる人々と密なコミュニケーションを取り、取材や撮影を重ねていく(本人がいうように)オーソドックスなドキュメンタリー写真の側面もある。写真集巻末の文章には彼らの年齢が書かれているし、カメラに正対したポートレートも何点か収録されている。時津と相手との密なコミュニケーションの賜物であることが滲んでいる。
いってみれば、本作はジャーナリズムに軸足をおいたドキュメンタリーの側面と、高梨豊やホンマタカシらが手がけてきたような写真による都市論的な側面が共存している作品とみることができるだろう。

ただ、ひとつの主題に対するこれらふたつの考え方はやや隔たりがあり、それは時津の被写体との距離感として表れている。ドキュメンタリーとしては対象に迫っている方がよいのだろうから距離はおのずと近くなるし、都市論的な趣きの強い写真は比較的距離をとって撮影されている。
時津は以前、路上生活者の取材とは関係なく、ブルーシートそのものをモチーフにした作品を撮っていたことがあるという。実際にその作品を見たわけではないが、話しを聞くと、これも写真による都市論的な方向性をもっていたもののように推察される。つまり、「ワンカップ酒を手土産に」取材していた時代からの経験とこちらとで、ひとつのモチーフをめぐるふたつの経験を融合させようと試みているのではないだろうか。誤解を恐れずにいうならば、この距離感の違いは、本作の方向性に対する時津の一抹の悩みのようにも感じられる。

とはいえ、ドキュメンタリー写真はひとつの事実が作者の観点や主語によってさまざまな切り口をのぞかせるのだから、見る側も興味は尽きない。2022年に新田樹の『Sakhalin』が林忠彦賞と木村伊兵衛写真賞をダブル受賞したことに象徴的なように、近年、ドキュメンタリー写真はあらためて注目されているように思う。パリフォトなど海外のフォトフェアでもドキュメンタリー写真作品の出品が増えたように感じるので、世界的な動向ではないだろうか。
そのような状況の中で、時津の『BEHIND THE BLUE』も、作者なりの距離感を見出すことで都市論的な側面をもったドキュメンタリー作品へとさらに進化を遂げていきそうな予感がする。


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