≪ラ・ボエーム≫解説 No.2〜時空を操る魔法〜

 こんにちは。≪ラ・ボエーム≫の特集も2回目となります。今回は、総合芸術と呼ばれるオペラの中で、プッチーニがどのように時間や空間を巧みに操っているのかを、解析していきたいと思います。
 プッチーニの譜面は極めて細かい指示が書かれています。「速い」「遅い」のパラメータで語られることの多い表情記号ですが、プッチーニの場合それは空間(劇)についての指示である場合がとても多いのです。

 ritardandoはイタリア語のtardareを由来とし電車の遅延など時間が遅れる・伸びることを表します。類義語のrallentandoはイタリア語のlentoを由来なのですが、これはエネルギーが失われていくことを表すのです。つまりrall.は時間軸についての指示ではなく、音楽やドラマの持つエネルギーについての指示だと解釈できるのです。

 この例を示すのに、第3幕の"O Marcello,aiuto!"は大変有効です。

譜例A 第3幕より二重唱
譜例A'  譜例Aの続き

 譜例Aでは<poco affrett><rall.><rit.>の3種類があります。<poco affrett><rall.>はアゴーギグの原則を記譜したもので、不安定なミミの心情の語りがよりリアルに浮かび上がります。自分の愛するロドルフォの名前を言う時に我を一瞬失う感じこそ、エネルギーが失われるrall.なのではないでしょうか。それに対してstruggeに掛けられた<rit.>は、gelosia(嫉妬)を言うためにエネルギーを貯めているようにも思えます。実際<rall.>→<a tempo>よりも<rit.>→<a tempo>のほうが多い理由も同じです。
 実演の時に注意すべきことは、rit.の時に時間と共にエネルギーを失わずに緊張感(tension)を保つことです。むしろrall.はdim.や和声的な開放を伴う場合があり、自然とエネルギーは失われていきます。

譜例B 第1幕より"Oh,sventata,sventata!"
譜例C 第4幕より"Te lo rammenti"

 次に挙げる例はこの印象的な旋律です。譜例Bでは"un poco piu mosso"と表示があり、ミミとロドルフォの運命の歯車が回転していくドラマを支えるのです。1拍目にあるアクセントは、時間の流れをより速く感じさせながら観客に印象を与えます。対して譜例Cの"Allegretto un po'sostenuto"はミミが最期にロドルフォに陽気に振る舞いながら甘い過去を回想していることを表します。sostenutoはプッチーニが頻繁に使いますが、私自身はドラマが湿っぽい雰囲気の時に使用されているように感じます。
 一見速度記号にも見えるし楽典の教科書にはAllegro=速くのように書かれているのを考えると、なかなか意味が掴みづらいです。プッチーニが指定した表示記号は、数直線上の時間だけでは勿論なく、舞台のような空間にも及ぶのです。
 言及は出来ませんでしたが、勿論2幕はその時空の魔法を最大限駆使した傑作です。それはプッチーニにとって実験的でもあり、≪トスカ≫
2幕のガヴォットなどに繋がる試みでした。オーケストラピットと別空間にある音楽。こうした立体感はワーグナーやヴェルディでさえ到達出来なかった偉業だと思います。

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