ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #13
第二章 航過:1
非番で中甲板に居た者達は、更なるお祭り騒ぎの幕開けを知らされて、興奮も頂点に達した感があった。
クララさんの言ではないが『お楽しみは骨の髄までしゃぶりつくせ- 』がモットーのわたしたちだよ?
はやる気持ちに急かされて我先と上甲板へ駆け上がったのは言うまでもないね。
上甲板に出ると既に左舷では、仕事を放り出した当直の連中が、手摺から身を乗り出すようにして大騒ぎしていた。
負けじとばかりに、中甲板から全速で駆け上がったわたしたちのお祭り気分も、息つく暇もなく更にヒートアップした。
ベテランのお姉様方の中にはシュラウドをよじ昇ってトップ台に上がったり、ヤードに取り付いて文字通り高見の見物を決め込もうとしている人達もいた。
ここで帆船の構造についてひとくさり。
お姉様方がよじ登ったシュラウド(横静索)とは、マストを引っ張って支える、放射状に広がる何本かの太いロープの総称だ。
上から下へ扇形に張られたロープの間には、梯子(はしご)の段々みたいな横向きロープ(段索)が、上までずっと等間隔で取り付けられている。
お姉様方がやったように、わたしたちがマストの上の方まで登るときはこの段索を梯子として使う。
シュラウドの下端は裾広がりの裾の部分でキール(竜骨)に連なる構造材に固定される。
扇形に広がる何本ものシュラウドは上に行くに従い徐々にすぼまって、上端はマストの下三分の一位の所で一カ所に集められしっかり締結される。
こうしてシュラウドでガッチリ支えられたマストは、いっぱいに開いた帆が受ける風の力に耐えて動力に変え、わたし達の船を海の果て空の果てまで連れて行ってくれるのだ。
現在就航している、航洋性能が高い大型の商船や軍艦など多くのシップ型の航海用帆船には、これから目にするであろう船を含め、いずれにも三本のマストが装備されていることが多い。
ちなみに軍艦とは言っても小型のスループ艦だった第七音羽丸のマストは二本だけだ。
マストは船首より順にフォアマスト、メインマスト、ミズンマストと名付けられている。
シュラウドがそれぞれのマストを支えていて、梯子としても使われているというのはさっき説明した通り。
そんなシュラウドの固定位置に接して、マストに直交する横桁をヤードと言う。
今マストの上に登ったベテランのお姉様方が取りついた見晴らしの良い場所だね。
けれどもヤードの役割は、かじり付いて遠くを眺める為にあるんじゃない。
ヤードは帆を張る為に必要な横向きの頑丈で長い丸太なのだよ。
ヤードは左右の先端に取り付けられたブレースと呼ばれるロープを、みんなで力を合わせて、引っ張ったり伸ばしたりすることで回転させることができる。
そうしてヤードを回転させることで上手に帆の向きを変え、帆が風を捕まえてパンパンに膨らむように調整するわけだね。
ヤードは各マストに三本取り付けられていることが多い。
中でもマストの一番下に取り付けられている一番長いヤードをロアヤードと言う。
ロアヤードからすぐ上のマストにはまるでロフトみたいな、トップ台と呼ばれる待機所が設えてある。
ここまではわたしたちみたいな武装行儀見習いの新人でも登って来るのは簡単だ。
それ程高い位置にあるわけではないので、下を見てもあまり怖くない。
トップ台は警戒監視の当直が張り付く見張り台であり。
ヤード上で帆を張ったり畳んだりする要員の溜まり場であり。
接近戦の時に狙撃手が戦闘配置につく銃座でもある。
トップ台から上にもマストは伸びている。
そこを登るためのシュラウドはトップ台を下端の固定部として張られ、ロアヤードより少し短い横桁であるトップヤード(下から二番目のヤード)の下で上端をまとめられている。
トップヤードに登ってくると、ここにもトップ台よりかなり狭いけれど人が待機できる踊り場が設えてあるのでそこで一休みできる。
この場所まで登るとかなり恐い。
トップヤードの踊り場から上にも更にマストが続いている。
そうしてマストのてっぺん、マストトップまでくたくたになって登ると、ようやく三本目のヤード、トゲルンヤードに辿り着く。
梯子代わりのシュラウドと一番短いトゲルンヤードの構造的設えはトップヤードと同じだ。
トゲルンヤードの位置は本当に目もくらむような高さで、そこから落ちれば一貫の終わりだとまんま実感できる。
航空船はただでさえ空に浮かんでいるのだから、マストトップから見下ろすと甲板がとても小さく見えて、海面や地表がうんと下の方にあるような感じになる。
視界の中になまじ甲板が入るせいで怖さ倍増なのだ。
わたしはこれを遠近法的恐怖と名付けている。落下傘降下の訓練を何度かやったけれどもそんなに怖くなかったのは、地表までの距離を比較する甲板みたいな対象物が無かったからだろうね。
そういったこともありトップヤードとトゲルンヤードは、武装行儀見習いのペエペエにとっては作業番外地だ。
事程左様に、いかに知力体力が秀でていようとも、水婦は高所恐怖症では務まらない。
惑星郵便制度の郵便船にだってマストはあるのだから、わたしだって恐怖心を押し殺しながら操帆業務には真面目に励んでる。
もっとも船上のお仕事にはどれ一つとっても手を抜いてよい作業なんてない。
一つ間違えれば自分ばかりか仲間の命も危険にさらすことになるのだ。
第七音羽丸に乗り組んでからというもの、義務や責任という頭だけで理解していた人の理を、わたしは日々身体で覚えつつある。
そうした意味で武装行儀見習いの奉公は、わたしの考えを根っこのところから変えつつあるのかもしれないね。
認めたくはないけれど、それもケイコばあちゃんの企みの内かもしれない。
ヤードに張られる帆の内で、一番大きな横帆はロアヤードから吊られる帆でコースと呼ばれる。
中くらいの横帆はトップヤードから吊られるトップスル、一番小さな横帆はトゲルンヤードから吊られるトゲルンスルだ。
各マストに以上の帆とヤードが三つで一組ずつあるので個々を区別する必要があるときには、メイントップヤードやミズントゲルンヤードといった具合で頭にそれぞれのマストの名前をつけて呼称する。
昼も夜も風の吹く限り、乙女たちはましらのようにシュラウドを上り下りして、そこから見下ろせば目もくらむような高みにあるヤードに取りつく。
乙女たちは例え荒天であろうと怯むことなくヤードの上で左右に広がり、力を合わせて大きな帆を開いたり畳んだりして風を操る。
そうやって乙女たちは雨にも負けず風にも負けず、足場の悪い高所で命を懸けて、己に課せられた本分を尽くすのだ。
そう、この小さな船は、恐れを知らぬ風使いの乙女たちによって、雲海を切り裂き勇躍天穹を渡っていくのだ。
そんな3Kな毎日を送るわたしたちに、ちょっとしたお楽しみが訪れようとしていた。