とも動物病院の日常と加納円の非日常
ジュン
「変ですよね、先生」
確かにその犬の歩き方はおかしかった。
ジュンは、近所のお肉屋さんで飼われている犬だった。
住宅街を見渡せば何処でも見かけるような茶色い雑種の中型犬。
それがジュンだった。
体躯は柴犬ほどで大きからず小さからず。
番犬としてもペットとしても頃合いなサイズの犬だった。
「ジュンは今年でいくつだっけ?
・・・十七歳か。
市から表彰されたんだよね」
ともさんはカルテを眺めながら無精ひげを撫でた。
日本の社会にまだまだ余裕のあった時代のことだ。
高齢犬が自治体から表彰されて記念品が贈呈される。
そんなイベントが、各地で普通に行われていた。
国民から集めた年金の原資を、役人が湯水のように蕩尽していた時代でもある。
「パイよ、お前どう思う」
僕は首をひねって、見たそのままを口にした。
「右前肢の挙上と跛行ですか」
ともさんは、口の端で薄く笑うと、何だいそれはという表情で僕の目を覗き込んだ。
「そうだ。
見ての通りジュンは右の前足をあげて、残りの三本の足だけで歩いているわけだ」
「趾間膿皮症とか爪の折損とか・・・」
ともさんは僕に最後まで言わせず、飼い主さんへの質問へ切り替えた。
「この症状は突然現れたんでしたよね」
「そうです。
散歩の時は何でも無かったんですよ。
ジュンの奴、最近はすっかり呆けちまって。
一日中同じ所をぐるぐる回ってばかりいるんです。
それが、さっき見たらびっこを引いてて」
お肉屋さんのご主人は奥さんとは対称的に痩せぎすだった。
胸に豚のマークが入った白衣から、香ばしそうな匂いがしていた。
揚げ物の香りだ。
お肉屋さんのコロッケとメンチカツは、お惣菜としてもおやつとしてもいけてる。
評判は上々で夕方になると行列ができるくらいの人気だ。
御主人はジュンにじっと視線を注いだまま少し早口で、異変に気付いた件を説明した。
香ばしい香りを放つ白衣のせいだろうか。
スキッパーが、濡れた鼻先をヒクヒクと動かしている。
スキッパーは診察室の隅に置いてあるディレクターズチェアーを、自分の定位置と決めている。
診察時間はそこで眠りこけているか、偉そうな目付きで診察の様子を眺めていることが多かった。
ご主人はちよっと不安そうではあった。
けれども異変を説明する口調は、しっかりしていて的確だった。
ご主人の持つジュンへの深い愛情が伝わってくる口調だった。
「ジュンを抱っこして前足を持ち上げてください」
ともさんはご主人にお願いすると床に跪き、そっとジュンの右前足を手に取った。
「指の又にも爪にも異常は無し。
そら、あった」
ともさんの太い指の先には、小さな草の実がつままれていた。
なんのことはない。
ジュンの跛行の原因は趾間膿皮症でも爪の折損でもなかった。
肉球と̪趾の間に挟まった、小さな草の実による痛みだったのだ。
茶色く変色したそれは、オナモミだった。
昨秋から草むらに落ちていたのを、散歩のときにジュンが踏む。
散歩中は趾間の毛に絡まるだけのオナモミだった。
それが帰宅後、回旋運動を続ける内に趾間に深く入り込む。
やがてオナモミは足掌に痛みを与えるようになる。
その結果、ジュンは挙上と破行を見せた。
そんなところだったか。
ともさんが立ち上がりご主人が抱っこの手を離した。
するとジュンは、何事もなかったかのように。
診察室の床の上を時計回りにぐるぐると歩き始めた。
もちろん跛行はない。
いつの間にやら、膝をついてジュンを観察する僕の傍らにスキッパーが居た。
スキッパーは前脚の肉球でポンポンしてきた。
おそらく、ものの見えぬ若輩者を慰めているつもりなのだろう。
「先生ありがとうございました。
ジュン良かったな」
ジュンは尻尾を振るでもなく。
表情を変えるでもなく。
ただひたすら円を描いて歩き続けている。
ジュンに喜怒哀楽の変化はない。
それでもご主人は本当に嬉しそうに顔をほころばせてともさんに頭を下げた。
ともさんもにこにこしながら『どういたしまして』と軽く手を振った。
「ともさん。
診察代も処置料も、もらわなかったでしょ」
お肉屋さんのご主人がジュンを連れて帰った後のこと。
キリキリ痛み出した胃の当たりを抑えながら、僕は暗い声でともさんを詰った。
なぜかスキッパーもともさんを見上げて、僕に加勢してくれた。
「えっ?」
「今月の支払いきついですよ。
いったい誰のために複式簿記を勉強したと思ってるんですか。
確かに僕にとっては良い勉強になりました。
検査無し、余分な投薬無しです。
ジュンの為にも飼い主さんの為にも、最良の診療だったと思います。
だけど、せめてともさんが頭と時間を使った対価は頂戴してほしかったと思います。
このままではスキッパーのおやつどころか、僕たちの三食だって。
更に動物性タンパクの供給を減らさなければならなくなります」
スキッパーが足元で元気に応援してくれたが、本当にため息が出た。
「パイよ、すまん」
いつものように、ともさんは手を合わせて僕に向かい合掌した。
「僕が傘地蔵だったら良かったんですけどね。
いくら拝んでもらっても、米俵どころか出るのは愚痴くらいなもんですよ?」
「パイよ。
相変わらずきついね。
タンタンメン大盛りでおごるからさ」
ともさんは叱られた子供のような顔で、お愛想笑いをかましてきた。
「だめですよ。
森下薬品に今月の支払いを済ませてからです。
津金沢さんが集金にいらっしゃるの、あさってですよ。
今月もあの方の人の良さに付け込んで、無理矢理なご厚意に縋る訳にはいきません。
とも動物病院の経理担当としてはですね。
何が何でも耳を揃えて、お借りしている分も含めてですよ?
薬品の代金をお支払いしなければなりません。
冷蔵庫にパンの耳と患者さんに戴いた夏みかんのママレードが入ってます。
今日明日はそれで凌ぎます。
分かりましたね?」
我ながら笑いがひきつってるのが分かった。
ダークサイドが傍に口を開けていたが僕は踏み止まり、なんとか笑顔を維持した。
そうして苦しい台所事情と近々二日の給食予定について、優しくともさんに宣告した。
スキッパーが生気を失った目で僕を見上げ、力なく尾を振った。
『ともさん、あなたの御愛犬の方がよっぽど物の道理を弁えていますよ?』
その冬、とも動物病院は、存亡の危機にさらされていたのであった。
とにかく先立つものが無かった。