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19歳の“初期衝動”が“ビジネス”に変わるまでVol.09

〜前回までのあらすじ〜

2002年、当時19歳だった僕は、彼女のノンちゃんと一緒にブランド“banal chic bizarre”を立ち上げる。22歳で原宿にオープンさせた直営店“ADD”の運営に四苦八苦しながらもなんとか1周年を迎えていた。




2006年 10月


気が付けばADDも1周年。


盛大に行った去年のレセプションパーティーとは異なり、この年は1周年パーティーを行わなかった。


記念日を忘れていた事もあるが、何より人が来なそうな気がしていた。


レセプションに来てくれた方々の中で、オープン後に来店したのは1割未満といったところ。


この1割と数少ないお客さんを呼んでも場がシラケてしまいそうで、想像しただけで寒気がした。


ノンちゃんは大学を卒業し、家にいる時間が増えていたが、相変わらずADDの事はあまり積極的では無く、店番を手伝ったのも一度だけだった。


その一度きりの店番も僕以上に酷い有り様で、お客さんが来店すると、「いらっしゃいませ」と小声で言った後にバックルームに隠れ、お客さんがいなくなったのを確認して店頭に出てくるといった始末。


僕も相当ダメ接客だったが、これでは売れるものも売れない。


これ以降、ノンちゃんに店番をお願いすることは無かった。


この6年後には出産を経て、人が変わったように社交的になるなんてこの当時は全く考えられなかった。


この頃、僕たちはbanalchicbizarre以外に新しいブランドを始めたくなり、kilaというレディースブランドを立ち上げた。


banalがとにかく派手なイメージがついてしまっていたので、それとは全く異なる綺麗な服を作りたかった。


初めてちゃんとモデルさんにお願いして、ヘアメイクとスタイリストも入れてルックを撮影したりした。


ただ、なかなか思うようにいかず、最初のシーズンはADDで取り扱うのみでセレクトショップに卸すことは叶わなかった。


というか、営業を全くしてなかったので、バイヤーに見てもらってすらない。


banalを始めた時はこの店に置きたいという目標があったが、kilaに関してはその点がすっかり抜け落ちていた。


作るだけ作って満足してしまうという、まるで学生みたいな事をやってしまったのがこのブランドだ。


ただ、このブランドでの失敗が8年後に立ち上げるNONTOKYOで活かされる事になる。


banalも同時に次のコレクション(2007 S/S)を迎えていた。


オリジナルのテキスタイルを使用したスウェットセットアップや、ストレッチの効いたボンテージパンツの他、初めてレザーでライダースジャケットを作製した。



いつの間にかトレンチコートやシャツをちゃんと作るようになる。

パンツはストレッチギュンギュンのボンテージパンツ。

靴はカスタマイズしたユーズド。




総柄のアイテムは過去にリリースしたものに比べるとあまりヒットしなかった。



ベストは軍もののリメイク、パンツはドローコードを沢山使ったトラックパンツ。


初めて作った本革のライダース。

この時は全然オーダーが無く10枚程度しか生産しなかったが、一年後に250枚生産することになる未来のヒット商品。

タイトすぎて腕がパツパツで、生きてる心地がしなかった。



このシーズンはあまりヒットが出た記憶がなく、Tシャツは落ち着いたグラフィックが多く、総柄のシリーズは過去のものよりヒットしなかった。


やはり工場生産が多くなるとセールス面では弱くなり、リメイクや手作業を入れるとどうしても派手なブランドの印象がついてしまう。


僕たちはその“派手”という印象をどうしても拭いたかったし、自分たちがファッションスナップに載ることよりも、ブランドをファッション誌に載せることを目標にしていた。


でも、正直セールス面での効力は、ファッションスナップで掲載される方が圧倒的に優っていた時代である。


今思うと、無い物ねだりだったのかもしれないと思うが、当時はこのバランスをなかなか上手くコントロール出来ないことに不満を感じていた。


この頃、ユナイテッドアローズの新業態で“Liquor women&tears”が始まり、これまでストリートブランドだと思っていた“PHENOMENON”がラグジュアリーブランドと共に取り扱われ、花と兵隊モチーフの総柄スーツを展開しているのを様々な雑誌媒体で見て、時代が次のステップに進もうとしているのを肌で感じていた。


banal同様、作るアイテムはかなり派手で目を惹くアイテムが多かったが、作るアイテムの幅、クオリティー、メディアへの露出など、多くの観点で我々には無いものを持っていた。


数年後に行われたPHENOMENONの東京コレクションデビューショーは今まで直接見たランウェイショーの中で一番素晴らしく、嫉妬を感じながらも目標として捉えた初めてのブランドだった。


次のシーズンから、“派手”への見え方が変わり始めることになる。


そして、この頃ADDではさっちゃんがウチを去ることになり、ユウヒに加え、当時19歳だったミヤビとアヤカの2名が加入した。


特にお客さんとして店にも来たことが無いこの2名は、スタッフ募集のブログから応募してきてくれた約60名の中から採用した。



右がミヤビ、右から二番目がアヤカ。

※写真は2008年のもの。


決め手はまずウチの服を知らないという点。


普通はブランドの事をより詳しく知っている人間にするのかもしれないが、僕は知っているのはお客さんで、それを聞いてくれる女性スタッフが欲しいと思っていた。


ブランドのウンチクよりも、ただ主観で似合うかどうかアドバイスし、服のウンチクはわざわざ足を運んでくれるお客さんから聞いて覚える。


お客さんはブランドの事を説明してくれる度にウチの服をもっと好きになってくれると思ったし、世間話の中にブランドの話が自然と組み込まれているのはとても合理的だと思ったからだ。


だから、ミヤビとアヤカにはあまり厳しいルールを定めずにダラダラと自由に働いてもらえるように心がけていた。


そして、まさかのこれがヒットした。


売上は倍以上になり、顧客も増えていた。


僕が店頭に立たなくなる事で、間接的に僕の話やノンちゃんの話が店頭で出るようになり、僕は“いつでも会える中川”から、“なかなか会えない中川”にランクアップしていた。


そして、ノンちゃんはあまりに外の世界と触れ合ってこなかったので、この頃“本当はノンちゃん存在しない説”が流れ出していた。


しばらくして、ユウヒもウチを辞めることになり、この19歳の2人が店を切り盛りすることになった。


アヤカはお客さんにも僕にもタメ口でダラダラ話すが、在庫管理やレジまわりのことはとてもしっかりやってくれて、彼女に色々相談する若者も多かった。


ミヤビはウチの服を着るにはコンサバかなと思ったのだが、これが逆に良かったらしくとにかくお客さんからモテていた。

ご飯に誘いたくて出待ちしてる迷惑な人も出始める始末。


売る商品の内容以上に販売員のキャスティングが何より重要な事だと気付かされた出来事だった。


僕が四苦八苦した店の運営は、この19歳の2人によりあっけなく救われてしまった…。


これにより、ようやく店も堂々と黒字と言えるようになった。


この話のタイトルにもある“19歳の初期衝動”がビジネスとして成立する事が出来た瞬間である。


この先も素晴らしい出来事やとんでもない大損失を出したエピソードがあるが、ここで一旦この話を終わりにしようと思う。


長い間読んで頂きありがとうございました。


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