思い出のゴミ屋敷たち

その2 そこだけの楽園

治虫さんのアパートは幸福荘という、今ではありえない幸せそうな名前の、それはそれは古びた汚いアパートである。上野の地下道に入ったかのような暗くじめじめした玄関口は、まわりが洞窟のようなコンクリートに囲まれていて、こんにちわーと挨拶する私の声がわーんわーんと響くのである。

その洞窟に何戸か並んだ扉のひとつをノックすると、あーい、どーぞーという声がする。扉をあけると人が一人立てる空間の前は、まっしろなビニール袋のレンガが積んだ壁である。スーパーの魚や肉を置いたあのプラスチックのトレイを何枚も重ねて、それをスーパーのレジ袋でしっかりと包んでくくるとちょうど一個のレンガのようになる。それを大量に積み上げてあるのだから、これはもう一種のアートである。その玄関奥の壁の真ん中に人が一人通れる幅の「階段」がある。もちろんスーパーレンガづくりである。

あーい、あがってちょうだい、と治虫さんがその階段の上のちょうど天井の電灯のあたりからにゅっと顔をのぞく。小柄で色黒で、笑うと顔がくちゃっとつぶれたようになる、黒い小さなポパイのようなおじさんである。上がれと言われても、よっぽどそっと上がらないとこのレンガはたちまちに潰れそうだ、と思いきや、踏み固められたプラスチックトレイのレンガは思いの外堅固である。私は途中まで上って、レンガ積みの頂上の、ちょうど屋根までの高さが人が座ったくらいの空間に顔を出す。

そこにちんまりと座り込んだ治虫さんは、ちゃんとあがってくださいよという顔をするが、そこは大人のつきあいである。そうは言わない。私を階段の途中に立たせたまま、最初に来たときのように、最近拾ってきた「お宝」を見せてくれる。小さなラジカセはカセットは動かないが、ラジオは確かにザザー、ザザーと音が出る。使えるのである。

そのようなガラクタの中に、みなさんは知っているだろうか、今のようにデジタル時計などというしゃれたものがどこにでも安く手に入る時代の、ほんのちょっと前、箱の中に数字の札が入っていて、それがパタン、パタンと落ちて何月何日というカレンダーになる卓上電気カレンダーなるものがあったのを。それが捨ててあったのだから、「お宝」探しの治虫さんが見逃すわけがない。ちゃっかり、大事なお宝として天井の電球からとったコンセントにさしてある。そのカレンダーは、仕組み上、箱の中に数字の札を照らす電球が並んでいるのだ。

きれいやろ、なぁ、と治虫さんが言うので、こちらも懐かしいものを見るつもりで顔を近づけると、箱の中、数字の札の下には小さなゴキブリの子どもがわんさかといるではないか。

ここな、電気が灯ってて暖かいんやろうな、ゴキブリの子が入ってきよるねん、なぁ、可愛いやろ、と治虫さんは宝箱を抱えるようにしてくしゃっと笑うのである。

確かに、幸福荘の小さな豆電球でひしめいて暖をとるゴキブリの子らと、そしてアートのような住まいを築き上げた治虫さんにとって、そこだけの楽園がその時にはあったのだ。

保健所から嘱託医として精神保健相談員と幾度か通ったそのアパートは、近く取り壊されるということだった。その前に私は嘱託医をやめ、精神保健相談員の女性も他の地域に異動になった。

その後幸福荘がどうなったのか、治虫さんがどこに行ったのか、私もまた病院の中の仕事に忙殺されるようになり、風の便りすら聞かないままに20年が、過ぎてしまった。

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