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つれづれ読書録:松本敏治著『自閉症は津軽弁を話さない』(福村出版)

(2017/06/11 記)

【松本敏治:自閉症は津軽弁を話さない(福村出版)】
私は方言が話せない。
(誰や、「放言」ばかり言うとるやないか言うのは?)
それでFBFがこの本を推奨しているのを見てすぐに注文した。
(アマゾンをポチるような反革命的なことはしない。)
私は、(やはり)、自閉ッ子だったのか?
私は、母が3代目の江戸っ子(3代目の途中で都落ちしたのでへどっこだと言っていた)で、父は生粋の岡山人であった。母は、ヒとシの区別ができない江戸っ子下町育ちで、いつ何時どんな場面であろうと岡山弁は話さなかった。その母の前でも岡山弁丸出しの父は、その点では母の軽蔑の的であった。
父に「白痴」呼ばわりされ続けてろくに教育されていなかった私は、もっぱら幼児検診で「発達の遅れ」を指摘された私をかばい続けた母に「特別の」教育をされたらしい。そのせいか、岡山にいた18年間、まったく岡山弁が使えなかった。岡山弁で威張り散らす父のようには絶対にしたくない、という母心(妻心?)だったのであろう、ありがた迷惑とはこのことである。
私の時代、岡山は、まだ女子の中にも「ワシ」という子がいるくらい方言文化圏だったので、中高時代はそれでエラく肩身の狭い思いをしたばかりか、友達の中でもなんとなくいつも疎外感を感じていた。思えば気のあった友人は、やはり標準語をしゃべっていたように思う。
そんな環境で、友人との「気心知れた会話」というものに馴染みなく育った私は、後に谷川俊太郎の「父も母も/世間話の仕方を教えてくれなかった」という詩句に涙することになる。そのせいか、思春期の頃から言葉はもっぱら読むことと書くことから私に入ってきた。話し言葉はうまく頭に入らないので、授業というものをきちんと聞けずに内職、落書きばかりしていたし、大学も6年間、ほとんど授業に出たことがない。今なら「合理的配慮」を要求しなければ卒業できない学生である。現在も、学会や講演は、自分はしゃべるのに、人の話が聞けないので行くことはない。昨日の学会もシンポジウムで好き勝手なことをしゃべり散らしてさっさと帰ってきた。
京都に来てから40年になるが、いまだに関西弁のアクセントができない。不思議なことに、岡山弁と江戸言葉はアクセントについては同じで、どちらも関西弁とは逆らしい。アクセントだけは身についていたということであろう。
そんな私の多大な興味をひいたのが、この本の題名である。「方言を話さない私は自閉症だった」のか?
結論を言うと、どうやら私は自閉症ではないらしい。少なくとも自閉スペクトラムの一番はしっこか、定型発達スペクトラムの一番自閉よりにすぎないようだ。
この本の面白いところは、妻の一言に示唆されて研究がはじまり、その思考と試行錯誤の過程をしっかりと追って話が展開するところである。その展開の中で、ASDが方言を使わないのは言語そのものの問題ではなく社会的機能の障害のためであろうとされる。つまり、標準語も方言も模倣としては学ぶことが可能なのだが、方言の使われる社会的関係への理解、相手の意図を汲んでコミュニケーションを行うことができないために、その必要のないテレビの言葉、標準語のほうを模倣することが先になってしまうというのである。
この意図理解の能力の欠如というところが、どうやら私にはないところで、人の意図を察するのはこうみえてもうまい。今流行の現代用語で言えば「忖度」に長けているので、私の社会関係は比較的円滑である。それゆえに、ASD傾向の人のように画期的に独創的なこともできないハンパ者でしかないのである。
残念だ。
そして、人の話が聞けないというのも、どうやらただの落ち着きのなさ、集中力・持続力の欠如のようだ。
ところで、この本の著者、妻の「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ」の一言から、それに逆らいたいばかりに研究をはじめ、10年たって最後に妻の慧眼に白旗を素直にあげるあたり、まったく悲しいほどに定型発達者らしい夫であることよ。

(その後、この書評がきっかけで実際の松本ご夫婦とお会いした。ご本人は自分をASDだとおっしゃり、奥様も同意しておられた。しかし、大変素敵な奥様であり、ASDの男性はフェロモンはわかるのだと発見した。)

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